Island spirit 八重山の海人(うみんちゅ)とクバ笠

面白くも滑稽で、ちょっと不思議な八重山人(えいまんちゅー)の気質の話題

八重山人(やいまんちゅー)の名誉のために一言、
この八重山人気質は、地域性であって、けっして馬鹿にしているわけではないのです。
愛すべき八重山人たちにこの一文を捧げます。

「4人に1人(25%)が沖縄独立を要望」
2005年11月に琉球大学法文学部の林泉忠助教授が実施した「沖縄住民のアイデンティティー調査」で、こんな結果が出た。独立を望む理由としては「沖縄の政治、社会的状況が本土とは違う」というのが最も多かった。

この調査は、林助教授を責任者とする調査チームが、沖縄県民2300人に電話アンケート調査を実施し、1029人から回答を得たというものだ。
アイデンティティーの基本構造としては、調査対象者の4割が「自分は沖縄人」と回答、一方で、「日本人である」が21%、「沖縄人で日本人」が36%おり、沖縄の日本復帰後40数年を経た現在でも沖縄人(うちなー)のこころの中にはとても複合的なアイデンティティーが実在していることを反映している。

沖縄県以外に、いったい日本のどこに「日本からの独立」を希求している県があるだろうか。そんなことは夢にも考えないのが日本人のアイデンティティーとしては普通なのだ。

沖縄本島よりもさらに420Kmも南に下った日本最南端・アジアの入口に位置する八重山、はたして、八重山人(やいまんちゅー)のこころの中には、どんなアイデンティティーが潜んでいるのだろうか?


八重山の歴史と成り立ち


八重山人のこころの故郷 沖縄に行く 旅をする 八重山ヒジュルー
愛すべき商売人たち 八重山の路線バス 魔法の言葉 八重山合衆国
謎の八重山言葉 八重山的運転 八重山タイム 八重山人と泡盛
隣町は台湾 移民の島 神の島 唄と芸能の島
絶対に謝罪しない? 細かい分類をしない UMA(未確認動物) 考えとくさ
知られざる日本一記録 守礼の邦(くに) 門中 離島の遊び方






【八重山の歴史と成り立ち】


八重山人(やいまんちゅ)の気質を話題にする上で、先に知っておかなければならないことがある。それは八重山の歴史と成り立ちだ。

九州から南へ伸びる飛び石のような琉球列島は「琉球弧」(りゅうきゅうこ)と呼ばれる。与論島より北 は鹿児島県の薩南諸島で、南が沖縄県の「琉球諸島」だ。
沖縄県という県は大小146の島々からなり、沖縄本島を中心にした沖縄諸島と宮古諸島八重山諸島に分けられ、南の宮古・八重山諸島のふたつを合わせて「先島 (さきしま)諸島」とも呼ばれる。
「八重山」とは、沖縄県先島地方の、石垣市・竹富町・与那国町で構成される島嶼の総称で、「やいま」と呼ぶこともある。八つの山という意味で、八つの山とは石垣、西表、小浜、竹富、新城、波照間、鳩間、黒島を指す。
現在はこの8島に加え、西表島に隣接する小島である由布島と、これらの8島からかなり離れている与那国島も「八重山諸島」に含むようになった。

南西諸島(なんせいしょとう)は、九州の南方から台湾の東方にかけて点在する諸島の総称で、北から南へ、大隅諸島、トカラ列島、奄美群島、沖縄諸島、宮古列島、八重山列島、尖閣諸島と連なり、東には大東諸島がある。
南西諸島は鹿児島県と沖縄県にまたがっているが、このうち鹿児島県側を薩南諸島、沖縄県側を琉球諸島と呼び、そのうちの宮古列島、八重山列島、尖閣諸島を総称して先島諸島と言う。また、かつての琉球王国の領土である奄美群島、沖縄諸島、宮古列島、八重山列島を総称して琉球列島とも言う。



琉球神話の世界で琉球創世の神とされる「アマミキョ」は、歌謡集「おもろさうし」の第二巻に、「てだこの大主(テダは太陽、コは子で、太陽神)が、「あまみきょ・しねりきょ」に命じて島を創り人を創った」と記されている。
琉球最古の歴史書「中山世鑑(ちゅうざんせいかん:1650年)」にも、「アマミクの事績」として琉球創世の記述がある。

日本での「アマミ」の初出は、「日本書紀:657年」で、これには「トカラ(吐貨羅)の国の男2人、女4人が、海見(あまみ)島に漂着し筑紫(九州)に来た」という記述がある。
「トカラ」は鹿児島のトカラ列島という説もあるが、タイのメコン川流域にあった国という説のほうが有力で、「メコン川流域にあった国の南方住民が、おそらく漂流して琉球−奄美を経て九州に来た」ということで、琉球は神話の時代から、こうした南方海洋民族の拓いた土地だったのだ。
※奄美諸島が琉球の支配下に入ったのは15世紀


琉球弧の生い立ち

琉球列島は古くは海底にあったが、約1500万年前から1000万年前頃に隆起して中国大陸や九州とつながった。
この時代にゾウやリュウキュウジカなどの大型動物や小型の哺乳類などが大陸から渡ってきて琉球に住みついた。西表島に棲息している「イリオモテヤマネコ」も、この時代に大陸からやってきて、その後の陸地の沈降や侵食によって島となった西表島に取り残されたのだろう。
ネコは泳ぎが下手なので、隣の島までは泳ぎきれないので西表島から分布が広がらなかったものと思われる。

←1000万年前の琉球弧と中国大陸、日本列島 東シナ海はまだ中海だ

この琉球列島は、200万年前頃に大陸と別れ、沈降した部分に東シナ海ができた。(その後また大陸とつながる時期もあったが、)約2万年前には沖縄諸島と宮古諸島・八重山諸島の3つの島嶼(とうしょ)部に分かれ、氷河期の終わりに氷河から溶け出した水で海水面が100mも上昇して現在の琉球弧の原型ができたという。

だから、八重山諸島の西側の海溝の深さは3,000mもあるのだ。

湊川原人に代表される沖縄の旧石器人たちも、他の動物たちとともに、または、その動物たちを追って、もともとは大陸から陸地を伝って琉球にやってきたと考えられているが、琉球弧が大陸と分かれた氷河期の終わり以降の海洋の時代には、大陸からとは違うルートで、メラネシア、ミクロネシア、ポリネシアなどから南の海を渡って、また、黒潮の反流に乗りヤマト(日本)の熊野地方あたりから琉球にやってきて住みついた海洋民族たちも居ると考えられている。


沖縄県具志頭村から出土した「湊川原人」 

「港川原人」というのは、沖縄県具志頭村港川石灰岩採石場で1970年に発見された化石人骨に付けられた名前で、放射性炭素法によって、1万8,000〜1万6,000年ほど前のものと推定されている。
港川原人の骨は4体分残っていて、これらの人骨によって後期更新世時代の日本人の祖先がどのような姿形をしていたかが初めて明らかになった日本で唯一初めて出土した旧石器時代人骨だと言われてきたが、2013年に石垣市の白保竿根田原(さおねたばる)洞穴で見つかった人骨の化石3点が国内最古の人骨と分かった。
この人骨は最も新しい腓骨(ひこつ)でさえ約1万5千年前のもので、これまでの発掘記録を大きく塗り替えた。頭骨片に至っては約2万年前にさかのぼると言う。
石垣市白保から出土した2万年前の人の頭骨片



文化の伝播(でんぱ)

日本列島に沿って流れる「黒潮」は、北赤道海流がフィリピン島東海域の海上で向きを北に変える辺りで誕生する。
黒潮はフィンピンあたりの西太平洋を北上し、台湾島東側から八重山に入り琉球列島の西側を通過した後、その支流は九州島西側を北上して対馬暖流となり、日本海海域に入っていく。
その本流は、トカラ列島(トカラ海峡)を横切り四国、紀伊半島、東海地方の太平洋沿岸を流れ、伊豆諸島の御蔵島と八丈島の間を通過した後、房総半島犬吠崎沖で東に転じる。
黒潮の規模は幅50〜100km、深さ200〜1,000m、毎秒2,500〜6,500万トンで、最大時速は7ノット(13Km/H)にも達する激流で、海は「文化のハイウエー」といわれるように、北上する黒潮の流れは、海産物や陸上植物を迅速に、また遠くに運搬し拡散させたばかりでなく、先史以来、多くの南方的な要素を琉球や日本文化にもたらしたのだ。


こんなことも 2011/06/30
漂流漁船、20日ぶり発見 沖縄から高知、船長無事

高知海上保安部は6月30日、6月上旬から行方不明になっていた沖縄県の漁船と船長の男性を、高知県の室戸岬の沖合で約20日ぶりに発見したと発表した。
同海保などによると、見つかったのは沖縄県伊江村の島袋良光さん(70)。「エンジントラブルで漂流した。このまま発見されないのではないかと不安を持っていた」と話しているが、衰弱した様子はなく、元気だという。
同日昼ごろ、航行中の外国船が「船が漂流している」と第5管区海上保安本部(神戸)に通報した。伊江村の伊江漁協によると、島袋さんは6月8日、ソデイカ漁のため1人で漁船に乗り、伊江港を出発、18日ごろ帰港予定だった。

縄文・弥生時代
日本の歴史では「縄文〜弥生時代」と呼ばれる石器時代、だが、縄文〜弥生文化は沖縄にはあまり伝播せず、ことに宮古・八重山諸島にはまったく伝わらなかった。
宮古・八重山諸島には日本文化の根源となった「縄文〜弥生時代」そのものが存在せず、日本とも琉球ともまったく異質の文化が根付いた。

この日本のものでも琉球のものでもない独特・異質の文化を育んだ5,000年〜7,000年前の八重山人の祖先たちは、海洋民族の本領を発揮し、黒潮の亜熱帯反流に乗って大洋を航海し太平洋を東へ東へと移動していった。
 黒潮の亜熱帯反流
彼らは土器やタイモなどの根茎類を携えてメラネシア、ミクロネシア、ポリネシアの島々へと渡って行き、移住・定住・混血を繰り返しながら、やがては東の果てイースター島にまでたどり着いたという。
文化は双方交流するものなので、当然、八重山人たちは南太平洋の島々を中心とするメラネシア、ミクロネシア、ポリネシアなどの南洋文化の影響を強く受けたはずだ。
八重山ではシャコガイで作った貝斧(かいふ)が多く出土するが、北琉球以北からはまったく出土しない。フィリピンやインドネシアにかけて発生した貝斧文化が、その地域から八重山に伝わったと見るのが自然だ。
「マタハーリヌ・チンダラカヌシャマヨー♪」という意味不明の合いの手で知られる八重山竹富島民謡「安里屋ゆんた」の歌詞は、そっくりそのままインドネシア語に訳すことができる。
「マタハリ(matahari)=太陽」「チンタ(cinta)=愛する」「カミ(kami)=我々」「サマ(sama)=同様に」となり、「マタハーリヌ・チンダラ・カヌシャマヨー」は「太陽は我らを平等に愛する」というような意味になるそうだ。

貝斧(八重山博物館蔵)







帆掛けサバニ
僕の八重山の知人の祖父さんは海人(うみんちゅ)だったが、彼は、若い頃、夜光貝を採りにパプアニューギニア諸島まで「帆掛けサバニ」を操って頻繁に漁に出かけていたと言い、パプアニューギニアから土産に持ち帰った木の人形が誇らしげに床の間に掛けてある。


文化の進みかたのズレ

日本(大和)には、中国大陸から2,300年前に稲作が伝えられ農耕集落生活が始められた。「弥生時代」の始まりである。農耕は九州から始まり、日本列島に広がっていったが、北海道と沖縄には及ばなかった。農耕の始まりと同時に、銅や鉄などを加工した金属器を使う技術も、この頃に日本(大和)に伝わった。

ところが、宮古・八重山諸島で日本で言う「農耕集落生活」が始まり、ようよう弥生時代なみの生活が始まったのは13世紀頃だと言われる。
13世紀と言えば日本は鎌倉時代で、源義経が平家と戦を繰り返していたあの頃まで、八重山では日本の縄文時代並みの狩猟生活が営まれており、この時代にはまだ鉄器すら八重山には存在しなかったのだ。
その意味では、八重山の歴史と日本の歴史との間には900〜1,000年のズレがある。
まるで弥生式土器と見まがう「バナリ焼」と呼ぶこの素朴な生活陶器は、17世紀頃まで八重山の一般日常品として使われていた。
パナリ焼の骨壷(八重山博物館蔵)


司馬遼太郎は「街道をゆく」の中でこんなことを書いている。
「すぐには信じられがたいことかもしれないが、八重山諸島では17世紀まで石器、木器の時代が続いていた。この事実を、冷静に知的にそして濁りのない情緒で把握しなければ、現代にいたるまでの沖縄史と、沖縄問題の本質をとらえぞこねるのではないかと思える。」
これは何も八重山の文化が日本より1,000年「遅れている」ということではない。歴史の進み方、文化の伝播の仕方が、日本のそれとはまったく「違う」というだけのことなのだ。

僕たちは、「日本の歴史はみんな同じ」と思い込みがちだが、大洋に隔てられ文化交流が薄い八重山のような島嶼(とうしょ)地域では、同じ日本であってもけっしてそうではないのだ。日本(大和)に日本史があるのと同様に沖縄には琉球史がある。沖縄の高校生は日本史だけでなく琉球史も習う。

僕の手元にある沖縄の高校の琉球史の本には、こう書かれている。
「琉球〜沖縄の歴史は波乱万丈です。古琉球の時代は東アジア世界で海洋王国として世界に名をとどろかせましたが、島津氏の侵略によって幕藩体制に組み込まて弱体化します。近代沖縄の時代は太平洋戦争に巻き込まれ、日本の敗戦によって沖縄は米軍の支配を受けます。戦後は日本復帰によって日本の一県になりましたが、米軍基地はいまだになくなりません。 」

日本(大和)では、「琉球征伐」と呼ぶ島津藩の軍事行動は、沖縄では「島津による沖縄侵略」に他ならない。この日本(大和)からの侵略によって琉球王朝は弱体化し、近代沖縄においても「米軍基地はいまだになくならない」のだ。
この琉球史の教科書の記述は、とてもマトモな視点だと、僕は思う。この教科書を読んで大人になった沖縄人(うちなー)たちが、この県を支えているのだから、沖縄県知事が「基地は県外に」と言い続けて一歩も譲らないのは当然だ。
沖縄人のこころの中には、いまだにこの薩摩による琉球侵攻(1609年)や明治政府による琉球併合(1879年)といった日本(大和)からの侵略の史実がある。
国土の1%にも満たない沖縄に70%以上の米軍基地を過重負担させている差別構造を生んだ根本原因は、(本土の)日本人による沖縄の人々に対する抑圧と偏見・差別の起源が見いだされると考えるのは僕だけではなかろう。

僕は沖縄生まれではないが、沖縄に20年住んだので沖縄人(うちなー)の本音がよく分かるようになった。

基地問題における大部分の沖縄人(うちなー)の本音は、
(1)沖縄が自ら基地を提供したことはこれまで一度だってない
(2)沖縄だけにこれ以上、基地を負担させるのはお断りだ 日本全体で考えて欲しい
(3)沖縄に対立や分断を持ち込んでいるのは政府であって自分たちではない
(4)子孫のためにもこんな沖縄の環境(基地の過重負担、騒音・事故・事件や戦場と隣り合わせの日常生活)を変えたい
(5)「安保」が重要であれば、その責任と負担は全国民(日本国民全体)が引き受けるべきではないか
こんなところだと思う。

このあたりのことを知ったうえで、八重山人(やいまんちゅ)の面白くも滑稽で、ちょっと不思議な気質を考えてみると、なんとな〜く、ちょっとだけ理解できるような気がするのだ。





【八重山人(やいまんちゅ−)のこころの故郷】




海洋民族である八重山人のこころの故郷は八重山よりもっと南の果てにある。

日本最南端の有人島である波照間島、そのまた南の果てにあるという理想郷のことを八重山では「パイパティローマ(南波照間)」という。
※八重山言葉で南は「パイ」、波照間は「パティローマ」と発音する。つまり、南波照間(パイパティローマ)とは「最果ての波照間島よりさらに南にある島」ということだ。

人の住む島としては日本最南端にあたる「波照間」という地名は、ここが世界の「ハテ:果て」であるという意味で名づけられたという説があるほどの離島で、現実には、この島の南にはフィリピンまで島はない。

八重山人は何事につけても、このように「南」を中心に物事を考える。
過去の八重山の歴史のなかで「北」から来たものといえば、琉球王府による圧政だったり薩摩(日本)からの収奪だったり・・・・とにもかくにも、今まで北の方からは良いものがやってきたという試しがないからだ。


八重山には「ニライカナイ」と呼ばれる地があり、これは八重山のさらに南の海の彼方にあるという理想郷のことだ。
波照間島よりもさらに南(パイパティローマ)にあるという理想郷が「ニライカナイ」、そこには、飢えも貧困もなければ差別も収奪もないという。

ニライカナイは「ニライ」と「カナイ」の二文節で、「ニライ」は「根っこ」の意味、「カナイ」は「彼方」を意味し、人間の故郷(根っこ)である彼方にある国のことを指すのだ。
 ※「儀来河内」という漢字が当てられることもある。


1648年(江戸時代:徳川綱吉の時代)、波照間の民衆は琉球王府の重税、人頭税(にんとうぜい又はじんとうぜい)にあえいでおり、この苦しみを救ってくれる「ニライカナイ」からの神の到来をひたすら待ち続けていたが、「神」などというものは、そうそう易々と人間の前には現れてくれない。
神の到来を待ちくたびれた波照間の民衆たちは、とうとう琉球王府の公用船を奪って、逆に、こちらのほうから「ニライカナイ」を探しに海に出てしまい、そのまま二度と波照間には帰ってこなかった。

実際には、波照間の南には島影ひとつないのだが、まっすぐ南に600Kmも行けばルソン(現フィリピン)があり、少し西に向かえば台湾も中国本土もある。
600Kmという海上距離は、当時の帆船の速度(時速約6.5ノット)でも順調に行けば50時間:たった2日強でフィリピンまで辿り着けた可能性はあるのだ。
はたして、波照間を捨てて理想郷パイパティローマを目指した彼らは、海の彼方の南の楽園、ニライカナイを見つけることができたのだろうか。
ニライカナイは実在しただろうか?実在したのであれば、島人たちは何処にたどり着いただろうか?
明治政府や歴史家たちが調査を行ったが、いまだ全ては謎に包まれたままなのだ。

    ※八重山島年来記


八重山人のこころの故郷は、この南の果てのニライカナイにあるのだが、本当のニライカナイの在り処は、南の海の彼方ではなく、人間のこころの中にあるのだ。


あなたの心のニライカナイはどこですか、あなたはそこに行きますか、行けますか。




【沖縄へ行く】




八重山人(やいまんちゅ)は、同じ沖縄県に住みながら、沖縄県の県都である那覇に行くことを「那覇に行く」とは言わず敢えて「沖縄に行く」と言う。

八重山は、沖縄本島とは遠く海を隔てており、その文化も歴史も沖縄本島とはかなり違う。
西暦1500年に琉球王朝は八重山の「オヤケアカハチの乱」を平定して八重山を琉球王朝に組み込み、この時代から初めて八重山は琉球(沖縄)になった。
500年前に琉球王朝に逆らって殺されたこの八重山の族将「オヤケ・アカハチ」は、いまだに「八重山の英雄」として島民の尊敬を一心に集めているのだ。

ひと口に琉球(沖縄)になったと言っても、それは現代の市町村合併のような平穏なものではなく、琉球王朝が八重山を武力侵攻によって植民地化したものだ。
さらに、琉球王朝は1637年から過酷な「人頭税(じんとうぜい・にんとうぜい)」という税を宮古・八重山諸島に課した。
高さ143cmほどの「人頭石」と呼ばれる石柱


子供の背丈がこの石を超えると課税したとも伝わるが、あまり根拠はないようだ

薩摩に献貢するために琉球王朝が考え付いたこの税は、収入や働けるか否かには関係なく、15歳から50歳までの男女一人一人に頭割りに税を課すという悪税だ。
ところが、驚くべきことに、琉球王朝や徳川幕府がとっくに崩壊した後の明治33年まで、日本政府も宮古・八重山に限りこの非人道的な人頭税を課し続けたのだ。

そう言えば、生活保護世帯にも納入義務のある「介護保険料」とか「消費税」とか言う近代税もこの非人道的な「人頭税」と似たような・・・・・気もするね。

幻の日清条約」と呼ばれるものがある。
明治13年、「日清条約」案の策定に動いていた日本政府の当初の条約案は、「沖縄本島以北を日本領、先島諸島を清国領にする」というもので、これはなにも清国に言われたから発案したものではなく、日本政府側が自発的に提案したものだ。これに対して奄美以北を日本、沖縄本島は琉球国として残し、先島は清国領にするというのが清国案だった。
最終的には分島案は結局まとまらず、琉球諸島に対する日本の領有権が事実上確定したが、「先島は清国領」ということに何よりも積極的だったのは他ならぬ日本政府だった。日本の国益のために琉球から先島を分割して清国に売り渡そうとしたのである。しかも、この案は、当事者である沖縄県民や八重山郡民には何も知らされていなかった。

太平洋戦争の末期には、連合国から求められたわけでもないのに、日本政府側から「八重山をハワイ州に編入してはどうか」とアメリカ側に提案して「要らない」と断られたこともある。ちっぽけな八重山諸島は軍事的にも経済的にも価値がないからだ。講和条件を少しでも有利にするため日本からアメリカへの貢物にしようとしたのである。
要するに、琉球王朝(沖縄)や日本中央政府からみれば、文化も民族も違う日本の端っこの八重山諸島なんかは日本の国益のためには売り買い譲渡もできる、ただの植民地にすぎないと考えていたということだ。

近年では、200カイリ問題や排他的経済水域などの中で日本政府は少しでも領土を拡大しておきたいがために、八重山諸島の尖閣諸島や小笠原諸島の沖の鳥島も「日本だ」と強硬に主張しはじめた。
しかしそれは、何も八重山諸島や小笠原諸島の漁民や住民の利益を考慮してのことではない。

日本最南端の(無人)島、小笠原の「沖の鳥島」
島は鳥が住むほどの広さもない
八重山にある尖閣諸島の無人島、「魚釣島」と「北小島」
急に日本の中央政府が熱心になったのも、内地の大手水産業界や将来の海洋埋蔵資源の日本(本土)への恩恵を考慮したもので、「沖縄/八重山の利益」のためではなく「日本(本土)の国益」のために他ならないのだ。

尖閣諸島海域には、これまで八重山のマグロのはえ縄漁船が日常的に出掛けて漁をしてきた歴史がある。
しかしそれも、八重山漁民を無視した日本政府の対中、対台、対韓外交の犠牲となって、今では満足にはえ縄を仕掛けることもできなくなった。
はえ縄漁法は、長さ数十キロに及ぶ仕掛けを流すが、同じ水域で双方が仕掛けを流すと縄が絡まってトラブルになるのだ。最近では、台湾・韓国のはえ縄漁船が尖閣海域に出漁するようになり、八重山のマグロ漁獲高は以前の7割近くまで落ち込んだ。

今では、石垣島と尖閣諸島の間の海域には、いつも外国漁船が200隻から300隻いて、日本の漁船はあきらめて別な場所で漁をしている実情だ。尖閣国有化以前には、こんなことはまったくなかった。

寝る子(中国)を起こした裕次郎の兄と、尖閣を国有化した先の民主党政府のおかげで、尖閣諸島を取り巻く国際情勢は一挙に緊迫の度を高め、尖閣警備のために石垣島に配備されている大型巡視船は今や14隻、人員350名、これらを賄うための平成25年度予算は実に230億円かかっており、こんなことがこれからずっと続くことも明らかだ。

中国にもメンツがある。自国民の手前、引くに引けない。こんなことをいつまでも続けていると、竹島同様、いつ中国が軍隊を送り込んで尖閣に基地を作ってもおかしくないところまで、その緊張は高まっているのだ。
いつまでも中国が保安庁の水鉄砲遊びに付き合ってくれるとは限らない。水鉄砲に代わって、明日、突然、砲弾が飛んできても不思議ではない。

八重山人も、そんなことは歴史の事実から実証的に本能で理解しているので、安易に日本中央の言うことを信じることはしない。
この「沖縄に行く」という極めて単純な言い方からは、そんな八重山人(やいまんちゅ)の潜在意識の中にある「(琉球や日本に利用されてきただけの)俺たちは沖縄人でも日本人でもない、八重山人だ」という強固な意思までもが読み取れる。

同じ八重山諸島の中に日本最西端の与那国島がある。
台湾までタッタ110Kmの国境の島は、もともと「与那の国」で、琉球王朝にも完全には組み込まれなかった独立国だ。
与那国の人たちは、石垣島に行くことを「八重山に行く」と言い、那覇に行くことを「沖縄に行く」、東京や大阪に行くことを「日本(大和:ヤマト)に行く」と今でも言うのだ。




沖縄というところは、なかなかどうして、とても広いし、八重山人(やいまんちゅ)のアイデンティティーもとても複雑なのである。




【旅をする】




八重山というところには大きな産業がない。

八重山の基幹産業は、サトウキビ栽培と牛の牧畜だ。近年盛んになってきた観光産業も、まだまだ八重山全体を潤すものではない。
リーマンブラザーズ事件後の不況のなかで、日本全体の完全失業率は5%台を超えているが、沖縄県では8%に近く、ある試算では、八重山の本当の完全失業率は10%強とも言われているのだ。

当然、島には若い人たちを養うだけの安定した職はないので、高等学校を卒業した若者の多くは沖縄本島や内地に職を求めて離島していく。

沖縄県の経済は、本当に貧しい。
沖縄県民の平均年収は333万円(平成25年賃金構造基本統計調査)、平均月収は23.75万円(勤続9年、平均40.5歳)で、全国最下位で、第1位の東京都580万円と比べると半分の収入しかないのだ。
戦後日本の復興や高度経済成長から沖縄は切り離され、基地や公共事業への依存から未だに抜けだせないことがその理由だと言われる。

全国最下位は年収だけではない。県内の非正規雇用者は44.5%、離職率は極めて高く、大卒3年内離職49%、高卒3年以内になると57.4%と、沖縄の雇用はまさに崩壊状態なのだ。
さらに、最低賃金は693円(平成27年10月9日発効)と、全国最低の一方で、公務員の平均月収は40万7,000円と高く、公民の深刻な格差も抱えているのだ。
だから、沖縄の子供たちは公務員にあこがれ公務員になることを夢見ている。

シングルマザーも多く、離婚率は断トツの全国1位で、児童の半数以上がシングル家庭という小学校すら存在するのだ。沖縄には、本土の人たちの想像の域をはるかに超える「貧困」が、今も蔓延しているのだ。

※石垣島には高等学校は3つあるが、短大や大学はない
  石垣島以外の島には中学校しかなく、高等学校はない

昭和44年、沖縄からの集団就職者を迎えに晴海埠頭にやってきた会社の人事担当者。

日本復帰前のこの時代に貧しい沖縄を離れて内地に職を求めて出て行った若者はとても多い。

島を離れた若者のなかには、内地の生活に馴染めずにUターンしてくる層もけっこう多いが、内地で結婚して家を構え、ちゃんと内地で生活していく人たちも当然多い。
八重山人(やいまんちゅ)に、そんな移住組の家族のことを訊ねると決まって帰ってくる言葉がある。「長男は、長女は・・・・・・今は日本(大和:ヤマト)に旅をしている」という言葉だ。
八重山の家族たちにとって、島を出て行った長男は、「島を捨てて出て行った」のではなくて、単に「旅をしている」ので、いつの日か、彼らはその旅を終えてこの島に帰ってくるはずなのである。

戦前の時代から貧しい沖縄人は職を求めて世界じゅうに移住していった。
米国、中南米、アジア、オーストラリア、ヨーロッパを含めて沖縄から出て行った沖縄人(ウチナンチュー)たちの数は実に20万人を超える。ことに、第一次大戦後には、沖縄で「ソテツ地獄」と呼ばれた深刻な経済不況の時代が到来し、沖縄人は海外に活路を見い出してハワイや南米に躊躇なく移住していった。
彼らはハワイや南米で闇雲に金を稼ぎ、沖縄の親戚に送金するというやり方で沖縄を支え続けた。今流行の「ふるさと納税」の沖縄版である。


でも、八重山人の思考のなかでは、彼らはみんな「島を捨てて移住した」のではなくて「旅をしている」だけなのだ。


とても素晴らしい八重山的な発想だと思う。




【八重山ヒジュルー】




「八重山ヒジュルー」という言葉がある。

これは「八重山人は冷たい」という意味で、特に石垣島以外の周辺離島に住む人たちや沖縄本島に住む人たちが、石垣や八重山の人を称して「八重山/石垣(の人は)ヒジュルー(冷たい)」というように使うことが多い言葉だ。

この「ヒジュルー」には、いろんな意味が含まれていて、冷たい・自己中心的だ・身勝手だ・いい加減だ・変わり身が早い、というような意味で使われている。
八重山人は別に冷たくもなく素朴で親切な性格だが、確かに、物事を安請け合いする癖があって、ある意味ではとても調子のいいところがある。

僕がこの島に越してきた直後に、こんなことがあった。
島の海人(うみんちゅ:漁師)と知り合いになった。海人いわく「俺の古い船があるから欲しかったらあげるさー。電話するから取りにおいで。」、海好き、釣り好きの僕は大喜びしたが、2週間待っても電話はかかってこない。
こちらから架けようかと思っても、釣り場で知り合っただけの間柄で、不覚にも相手の連絡先を聞いていなかったのだ。そのまま月日が経って、もうこの話はお終いだ。
では、彼が「嘘」をついたのかというと、そうではない。そのとき、僕がしつっこく彼に連絡して「まだかまだか」と攻めたてたら、船は僕のものだったのだ。僕が放っておいたから、その話がお終いになっただけなのだ。

これと同じように、八重山人(やいまんちゅー)は「俺に任せとけ!」というようなことをよく口にするが、任せておいて物事が進むこともまずないのだ。進めたければ、こちらから相手をせっつかなければ進まない。この島では、「約束」とか「納期」とか「締切」とかいう言葉はほとんど死語に近いのだ。
八重山人(やいまんちゅー)と付き合うには「鉄は熱いうちに打て」の精神が肝要、僕がそのことに気づいたのはこの島に来てから1年を過ぎたころだった。

大和(やまと:日本)には、「触らぬ神にたたりなし」とか、「君子危うきに近寄らず」とかいう諺がある。いずれも危険やリスクが予想されることを避けろという格言だ。
八重山人は、この諺を確実に実践する。危険からはとても逃げ足が速い。
スクラムを組んで八重山人と一緒に何かをしていても、難しい局面に陥ったり、ちょっとヤバイことが起きそうになると・・・・・蜘蛛の子を散らすように、いつの間にか誰も居なくなる。
残るのはみんな内地人(ないちゃー)だけだ。

だから、八重山では商店の入れ替わりがとても多い。ちょっとでも経営困難だと判断するとアッという間に閉店してしまうのだ。春に八重山に旅行したときに訪ねた店を秋に訪ねると、もう閉店していたということもザラにある。
半年前に、近くの空き地にトレーラーを据えて商売を始めた人が居た。最初は、ショットバーのような商売をしていたが、彼は、この半年の間にショットバー→寿司屋→古本屋→リサイクルショップ→ダイバーズショップと計5回の職種変更をした挙句、ある朝、突然トレーラーハウスを解体して閉業してしまった。あれだけのバイタリティがあるなら腰を据えて頑張れば何でもできるのにと思う。
その店の隣の貝細工やTシャツなんかを売っていた土産物店も今では空っぽだし、その隣に同じ頃に開店した制服屋さんも半年後には閉店してどこかに行った。


これが単に「根性ナシ」なのか「ヒジュルー」なのか、あるいは「賢明な経営判断」なのかは誰にも分からない。





【八重山の愛すべき商売人たち】



どういうわけか、この島の商売人は商売をする気がない。

この島には、生活に必要なひととおりの商品は売っているが、難しいものは何もないので注文して取り寄せることになるが、たいがいは代金前払いなのである。

あるとき、パソコンの部品を注文して代金25,000円を前払いした。店主いわく「10日ほどで商品が来ますから電話します。」
この島に来てから、こういう話はあまり信じないことにしているのだが、案の定、20日待っても電話がない。店を訪ねてみると、「(商品は)やがて来ると思うさー」という返事。

「やがて」とか「思う」とかいう返事を商売の上で聞いた経験がないので、さすがにカチンときたけれど、顔には出さずにもう一度、問屋に確認の電話をしてもらった結果、「あと10日待ってください。」という返事だ。
はてさて、待つこと10日、当然のように電話はない。さらに10日待った末、くだんの店を訪ねて「まだ来てないの?」と聞くと、店主はおもむろに奥の棚を指差して、「あそこに来てるさー。」

その後、僕がどうしたかというと・・・みなさんのご想像にお任せです。


この前、石垣港の沖にある一文字波止(陸から離れて海上に独立した防波堤:当然、渡船でなければ渡れない)に夜釣りに行った時、「午前8時に迎えに来る」という約束の渡船が午前8時半を過ぎてもやってこない。
渡船屋に電話すると、船頭の奥さんから、「多分、やがて(主人が)行くと思うけど・・・」というスゴイ返事が返ってきた。
「やがて行くと思う」という返事までは予想していたのだが、さすがに「多分、やがて行くと思うけど・・・」という言葉までは僕の予想の範疇にはなかったので、僕は何も言えず黙って電話を切ったのだ。
多分・やがて・思う・けど・・・」という四つの象徴的な八重山言葉の中には確定的な要素はひとつも存在しないのである。要するに、いつ来るかは誰にも分からない・・・これは何ともすごいことである。

八重山の愛すべき商売人たちは、だいたいこんな調子で商売するのです。
それは何も「すでに金を貰っているからいい加減に対応する」とか、「安い商品を買う客だから適当にあしらう」とか、そんな高尚なことではないので、みんなにそんな対応をするのです。でも、島人(しまんちゅ)は怒りません。この島ではそれが当たり前だからです。

金を前払いしないときでもそうで、「商品が揃ったら電話します」というような商売上の約束が守られることは稀なのです。連絡さえしてくれば買いに行くのに連絡がないので買えなかったりするのです。なんて勿体ないことなんだろう。
請求書なんかは、一度送ってきたら払わなくてももう送ってこないし、督促の電話もしてこないのです。だからお金のない人は当然払いません。
八重山では家賃を半年ためるくらいは朝飯前で、2年も家賃を払わない人に出て行ってもらうのに「立退料」を払ったという優しい不動産屋さんも知っています。


なんて親切な商売人たちなんだろう(*^_^*)





【八重山の路線バス】



八重山にも路線バスはある。

ところが、この八重山の路線バスはダイヤがいい加減でバス停で待つほうは大変なのだ。
石垣島の北部に行くと、1日数便しかない路線バスを20〜30分待つこともある。信号もほとんどない地区なのに、なんでこんなに遅れるのか、かねてから疑問に思っていたが、先日、その疑問がやっと解けたのだ。

石垣島の北端に「平久保崎灯台」という素晴らしい景色の灯台がある。
     

ここから観る景色は雄大で、晴れた日には遠く「多良間島」が望め、観光客には絶大な人気のあるスポットなのだ。
この灯台は、路線バスが走っている県道から2kmほど離れていて歩くと県道から20分近くかかる。

ある日、僕がこの灯台へ行こうと県道を曲がったところで、灯台の方向へ走っていく女の子に出会った。乗せてあげようかなと思いはしたが、好きでランニングしているかも知れないので余計なおせっかいは止めにした。
この子は、僕が灯台見物をして帰ろうかなとしている頃、身体中汗まみれでフウフウ言いながら、やっと灯台にたどり着いたと思うや、カメラを取り出して4・5枚撮影し・・・また走って県道のほうに引き返そうとするのだ。その間、たった2分。

気になって事情を尋ねると、「県道の入口でバスが待ってくれている」と言う。路線バスの運転手が「これが最後のバスだから灯台見物すると街に帰れない。ここで待っていてあげるから、見物しておいで。」と言ったのだそうだ。

う〜ん、彼女が急いでいた理由は納得です。
ゆっくり見物するように声をかけ、バスが待っているという県道まで僕の車に乗せてあげて下りてみると、なるほど、バスは確かに待っていたのです。地元のお客さん3名も運転手と談笑しながら平気で待っているのです。

石垣島の北部地区を周る路線バスのダイヤがいい加減な理由をはじめて理解したエピソードです。

こんなことがあるのは日本中で八重山だけだと思う。これを許す土壌がこの島にはあるということで、いいことのような悪いことのような、懐かしいような、楽しいような、これも八重山人(やいまんちゅー)気質ですな。


彼女がなかなか可愛かったので・・・運転手さんがただの助平だっただけかもしれない(*^_^*)




【魔法の言葉】




八重山には便利な魔法の言葉がある。

八重山人(やいまんちゅー)は、よく「だっからよー」という言葉を使う。
この「だっからよー」は、素晴らしく八重山的で、便利な魔法の言葉のひとつなのだ。

八重山人と議論をしていると、議論が白熱し、彼らが返答できないような難問にブツカルと「だっからよー」の出番がやってくる。

「だっからよー」と言われたほうは「だから何なのか」を期待して待つが、「だっからよー」が出るとだいたい話は終わってしまうのである。僕が初めてこの言葉を聞いたときには、言葉の主は「だっからよー」を最後に、突然ものも言わず靴を履いて家に帰ってしまった。取り残された僕のほうは、「何か怒らせるようなこと言ったかな?」と余計な心配をしたものだ。
「だっからよー」の主は、翌日、当たり前のように僕のところにやってきて、昨日のことは完全に忘れているようだ。
「だっからよー」には、「だっからそのとおりだよ」とか「だっから○○はできないよ」とか「だっからもう止めようよ」とか「だっから無理なんだよ」とか・・・・その状況に応じて最適なありとあらゆる語尾が自動的に挿入されていくようだ。
自動挿入される語尾は否定形であれ肯定形のものであれ、この際どちらでもいいのです。要するに「だっからよー」なのです。

八重山人(やいまんちゅー)がよく使うもうひとつの話を終わらせてしまう魔法の言葉に「よく、わからんさ」というのがある。
八重山人は、難しいことになると、最後は必ず「よく、わからんさ」で話を締めくくって一方的に終わりにしてしまうのだ。
これは、良く言えば八重山人のおおらかさや楽天的な性格をものすご〜く現した言葉で、何事も難しく考えず、悩まず、適当に処理してしまおうという八重山人の素晴らしい処世術なのだ。
これがあるから、八重山人は長生きするに違いないと、僕は常々思っているのです。

このふたつの便利な言葉を八重山だけで使うのは、たいへん勿体ないのだ。

内地の国会議員やお役人も、ぜひこの魔法の言葉を使うべきだと思う。そうすれば、証人喚問なんかはもう屁のカッパですよ。


何か聞かれたら「よく、わからんさ」、もう少し突っ込まれたら「だっからよー」、これでもう、怖いものはな〜んにもありません。




【八重山合衆国】




八重山と、沖縄県の県庁所在地である那覇とは、実に420km離れている。

一口に420kmと言うが、実は大変な距離で、本土で言えば東京−大阪間の直線距離に相当する。しかも、八重山と那覇とは「海」を隔てている。
こんなに離れたところを同じ「沖縄県」としてひとくくりに考えていいのだろうか?そんなことは誰が考えても不可能なことで、東京−大阪間も離れていれば、当然、文化も自然も言語も気質も違うのだ。第一、県庁に行くのに東京から大阪まで出かけていくことなんか出来るわけがない。

もちろん八重山にも県の出先機関「支庁」というのがあるが、すべて「支庁」でできるわけでもなく、重要なことは那覇に出向かないとラチがあかないのだ。

鹿児島から種子島−屋久島−奄美大島−徳之島−沖縄本島−宮古島−八重山と連なる弓形の列島を「琉球弧(りゅうきゅうこ)」と呼び、

1.「南西諸島」という呼称は沖縄本島−宮古−八重山のこと
2.「先島諸島」という呼称は宮古−八重山のこと

3.「八重山諸島」という呼称は石垣−西表などの八重山のこと

を指すのだ。


沖縄本島−宮古島−八重山間の距離は約600km、鹿児島−八重山間は約1200kmも離れているのだ。1200kmという距離を南へ行けば、そこはもうフィリピン諸島の奥深くへたどり着いてしまうのだ。

これだけ日本本土から遠く離れてしまうと、言葉も風俗も、ある意味では、文化も人種も、そして国さえも日本(ヤマト)とは違うのです。
八重山人(やいまんちゅー)と話していると、あまりにも日本の地名を知らないことに驚かされることがある。
八重山からみれば、日本(ヤマト)の聞きなれぬ地方名、岩手県とか福井県とか岐阜県とか石川県とか栃木県とか徳島県とか佐賀県とかいった地方は、はるか彼方の“外国”の地方名なので、平均的日本人がマサチューセッツ州とかアイダホ州とかがどこにあるのか知らないのと同様に、当然、まったく知らないのです。

八重山人(やいまんちゅー)には、北海道・仙台・東京・名古屋・大阪・神戸・福岡・広島・鹿児島あたりさえ知っていれば困ることはな〜んにもない、細かな日本の地理知識なんぞ、この南の島には生きていくうえで何の必要もない知識なのです。
これは日本(ヤマト)に住む人たちが、石垣島や西表島、小浜島、与那国島、波照間島などのちっぽけな南の島々の名前を知らないでもなにも困らないことと同じことで、この日本の端っこの夢の楽園には必要のないことなのだ。

平成24年現在の石垣市には、全国47全都道府県すべてからの移住者が住み着いており、また、世界56ケ国からの移住者が住んでいる。
たった48,000人程度のちっぽけな街で、いったい全国のどこに、こんなスゴイ街があるだろうか。

この島の文化がチャンプルー(ゴチャ混ぜを意味するオランダ語)なのは、こうして考えると、とてもよく理解できる。


かくして、僕は、この日本の南の端っこの島のことを愛を込めて「八重山合衆国」と呼び、この島に住む小心で、優しく、純朴な愛すべき人たちのことを「合衆国住民」と呼んでいるのです。




【謎の八重山言葉】



沖縄の言葉は、もともとが読みにくい。

この表は、難解な沖縄の地名や姓の読み方だ。
代表的なものは「喜屋武」と書いて「きゃん」と読む。まるで犬の名前のようだし、「平安名」と書けば「へんな」と読み「伊武部」は「いんぶ」と読むのだ(*^_^*)
漢 字
よ  み
漢 字
よ  み
東上原 アガリウエバル 仲順 チュンジュン
東江 アガリエ 束里 ツカザト
東平安名 アガリヘンナ 当添 トウソエ
東山 アガリヤマ 桃原 トウバル
安慶名 アゲナ 渡慶次 トケシ
熱田原 アッタバル 通堂 トンドウ
天久 アメク 中城 ナカグスク
天底 アメソコ 仲村渠 ナカンダカリ
池武当 イケントウ 今帰仁 ナキジン
弥上原 イヤガイバル 西武門 ニシンジョウ
西表 イリオモテ 二中前 ニチュウマエ
西洲 イリジマ 饒波 ノハ
西原 イリバル 饒辺 ノヘン
伊武部 インブ 南風原 ハエバル
宇佐浜 ウザハマ 繁多川 ハンタガワ
大当原 ウフトーバル 樋川 ヒガワ
運玉原 ウンタマバル 比屋根 ヒヤゴン
奥武島 オージマ 平良 ヒララ
奥武山 オオノヤマ 為又 ビイマタ
兼箇段 カネカダン 為又原 ビイマタバル
川平 カビラ 保栄茂 ビン
上勢頭 カミセイド 古島 フルシマ
喜如嘉 キジョカ 辺戸 ヘド
喜屋武 キャン 平安座 ヘンザ
喜友名 キユナ 平安名 ヘンナ
宜次 ギシ 外間 ホカマ
後原 クシバル 真地 マアジ
国頭 クニガミ 真境名 マジキナ
具志頭 グシチャン 真玉橋 マダンバシ
城・塞 グスク 摩文仁 マブニ
城辺 グスクベ 新原 ミーバル 
健堅 ケンケン 水納島 ミンナジマ
越地 コエチ 報得川 ムクエガワ
東風平 コチンダ 山入端 ヤマノハ
越来 ゴエク 山原 ヤンバル
後良川 シイラガ 与那原 ヨナバル
諸志 ショシ 饒平名 ヨヘナ
志林川 シリンカー 寄宮 ヨリミヤ
十貴瀬 ジッカンジ
勢理客 ジッチャク
瑞慶覧 ズケラン
崇元寺  ソウゲンジ
惣慶 ソケイ
田井等 タイラ
沢岻 タクシ
谷茶 タンチャ
北谷 チャタン

でも、八重山言葉には、もっともっと謎が多いのだ。

1日(いちにち)・2日(ににち)・3日(さんにち)・4日(よんにち)・5日(ごにち)・10日(とっか)と言い、けっして1日(ついたち)・2日(ふつか)・3日(みっか)・4日(よっか)・5日(いつか)・10日(とうか)とは言わない。
人の家に訪ねていくこと、「今から行きます」ということを「今、来るさー」と言うので、相手が来るのか自分が行けばいいのかサッパリ分からない。
「とっかにくるからよー」というのは「10日に(訪ねて)行くからね」という意味だが、早口で急に言われると、「取り替え難いからよ−」と聞こえていったい何のことなのかなかなか理解できない。
来たる(きたる)とは言わず来る(くる)と言うので、初めて「来る(くる)○月○日に〜」というアナウンスを聞いたときには漢字がマトモに読めないアナウンサーだと思ったものだ。

また、石垣島の方言には、「借りる」と「買う」という言葉はあるが、「貸す」と「売る」という言葉はない。「貸す」ことは「借らす」といい、「売る」ことは「買わす」と言う。
飛騨古川あたりで使われる飛騨弁にも同様な使い方が残っていて、どちらにも古い日本語の言い回しが残っていることが多い。山奥にあり街と閉塞された飛騨地方と海に隔てられて閉塞された石垣島、なにか共通した言語の謎があるのかもしれない。

八重山諸島は、その主島である石垣島を中心とする19の島、もっとも遠い石垣−与那国間は130kmも離れていて文化交流が薄いので、与那国の方言は石垣島の人でさえ理解できない。
与那国では「えー」や「おー」の母音はなく、長音の母音もそのまま「い」と「う」となり、ヤ行がダ行に変化する。与那国方言は、原則として長短の区別のない/a,i,u/の3母音でとても特異な音声で発音するので、英語を聞くよりも難解なのだ。

与那国方言の唄 「風のどなん」 耳だけで聴こうとすると、まったく通じない。
※上の赤いところをクリックすると音楽が聴けます
 音が出ますので、職場で見ている人は要注意(*^_^*)

BEGINの「島人(しまんちゅ)ぬ宝」の歌詞に「トゥバラーマもデンサー節も言葉の意味さえ分からない♪」というのがあるが、トゥバラーマというのは「訪う(とぶらう)」ということで、恋人同士が訪ね会う、転じて「逢引」の歌のこと、デンサーというのは「伝唱」ということで、代々伝え教えるという教訓歌のことだ。
石垣島では、旧暦の8月13日にトゥバラーマ大会という民謡大会がある。十三夜の月明りの下で聞くこの唄は心にしみる。
「トゥバラーマや言ずすどぅ主」ということばがある。これは歌う人が主、つまり歌い手によってさまざまなトゥバラーマがあるという意味だ。
この「トゥバラーマ」も、純粋な八重山人に発音させれば、「トゥブゥアリャーマ」となる。とてものことに日本語で表記するのは困難なのだ。     
「いすずどぅ主 なかどう道ぬ とぅばら−ま」の幕  これが日本語とは、にわかには信じがたい

八重山言葉には、イとウ、エとアの中間母音(中舌母音)があって実際の発音は似たように聞こえても、仮名表記にするとなるととても微妙だ。
八重山の代表的な民謡である「鷲(バシィ)の(ヌ)鳥節(トゥリィブシィ)」の発音は、こう書くのだろうが、この書き方が正確かどうかは人によって判断が別れる。
八重山人(やいまんちゅー)たちは、日本語の「古語」または「万葉語」に近い表現を、八重山風に中舌母音で訛(なま)って発音しているのだから、そんなものが理解できる現代人はほとんど居ないのです。

八重山では物知りであること、知恵が深いことを「人文(じんぶん)がある」と言い、知識人のことを「文者」と呼ぶ。こんな言葉も日本ではすでに忘れられた古き日本語の表現で、八重山人は今も万葉の世界の言葉を操るのだ。

八重山は東南アジアの入口にあたる街で、フィリピンの北端からわずか600Km、16世紀の帆船の船足でも50時間:2日強でフィリピンから来れる地の利だから、当然、フィリピンだけでなく、マレーシア、タイやインドネシアあたりの海洋民族も古くから八重山に行き来しており、そのまま八重山に住み着いた人も相当数居る。中国大陸や台湾からの移民も多い。これらみんなが八重山人の祖先たちなのだ。

「大航海時代」には、マニラ・ポルトガル領マカオ・インドネシアのバタヴィア・台湾のオランダ植民地ゼーランディア・スペイン植民地サンドミンゴやサンサルバドルなどがあり、石垣島はそれらの港から出航した西洋船が日本(大和)へ行く航路中にあったので、石垣島で水や食料を補給したり、コショー(ピパーツ)を買ったりという形で西洋文化との接点も多かった。ピパーツと八重山で呼ぶ島コショーの語源は、当然「Pepper」だ。

「マタハーリヌ・チンダラカヌシャマヨー♪」という合いの手で知られる八重山竹富島民謡「安里屋ゆんた」の歌詞は、そっくりそのままインドネシア語に訳すことができる。
「マタハリ(matahari)=太陽」「チンタ(cinta)=愛する」「カミ(kami)=我々」「サマ(sama)=同様に」となり、「マタハーリヌ・チンダラ・カヌシャマヨー」は「太陽は我らを平等に愛する」というような意味になるそうだ。


八重山言葉の謎は深まるばかり・・・・・・




【八重山的運転】




沖縄は車社会である。

どこの家にも車はあるし、オジィやオバァたちにも免許を持っている人は多い。ところが、八重山人(やいまんちゅー)の車の運転速度はとても遅いのだ。

石垣島の街中を走る車の平均スピードは、だいたい時速30〜40kmだ。これが郊外に行くと、農家のオジィやオバァたちはさらに遅くて時速20〜30km・・・・・これはもう車の走るスピードとは言いがたい。
ところが、感心するのは、こんなノロノロ運転の車の後ろについた運転手が、ホーンを鳴らしたり追い越したりせずに平気で尾いていくことだ。

それでも交通事故は起きる、島人(しまんちゅ)の運転技術がつたないことが主な原因だ。
方向指示器を出すという習慣のないドライバーも居る。小道に右折する時、大回りして小道に入るため方向指示器を出さずに左側に寄る、後ろから尾いているドライバーは「道を譲った」と勘違いして追い越そうとするが、突然、右折してくる人も居るので、とても怖い。
狭い市役所の駐車場に車を駐車しようとしたところ、駐車場から出ようとバックしてきたオバァの運転する軽四に僕の車の横腹へまともにぶつけられたこともある。彼女は後ろなんかはまったく見ていないし、知らん顔をして出て行こうとするのだ。
追いかけて窓越しに声をかけたら、「当ったかね〜」と言う。当ってるワイ!

南北45kmの小さな島だから急いだところで何もないし、急ぐだけの用事もないのだから、八重山人(やいまんちゅー)たちはともかくノンビリ走るのだ。当然のことながら、この島には高速道路はない。

こんな調子だから、この島で免許を取り、この島でしか車に乗ったことのない人が都会に遊びに行ってレンタカーなんかを借りると大変なのだ。
東京の首都高速や大阪の環状線なんかをレンタカーで走る。運転し慣れぬ六車線道路なんかはどこを走ったらいいのかサッパリ分からない。後ろから猛スピードで併走する車の間を縫って車線変更したり、右折したりする運転度胸は、八重山人にはとてもないのだ。怖いからといってゆっくり走ると、なおさらブッソウだ。

「必死になってハンドルを握ったが、脂汗が出てきて30分も走ると降参して一般道路に降りた、もう二度と東京では車に乗らない。」僕の知り合いの20歳代の島人のご意見だ。

ちなみに彼は、この島では「暴走族」と呼ばれていて、何度かPOLICEのお世話にもなったこともある堂々たるクルマ少年だ。この島の「暴走族」は50CCのオートバイが主流で、ときおりオートバイで4〜5人が街中を“暴走”する。この島のPOLICEもこれを追跡してカーチェイスなんかをするのだが、見ていてとても危なっかしい。
八重山の「暴走族」はとても微笑ましく、暴走族のくせに赤信号や赤の点滅信号ではちゃんと停止し、青になってから進む。赤の点滅信号をちゃんと守る暴走族なんて内地じゃ見たことがない。
50CCのオートバイが少し早く走るくらいほっとけばいいのにと思う。


なにも都会の真似をすることはありません。こんな島なんだから、今のままでノンビリやりましょうよ。




【八重山タイム】




沖縄には沖縄タイムという時間があるそうだが、八重山には八重山タイムという独特の時計がある。

この八重山時計は、内地の時計とはすこしだけ回り方が違う。

商工会主催の釣り大会に参加したことがある。ファックスで送られてきた大会案内には「Am8:00八重山漁協前集合」と書いてあったのだ。
僕が指定時間の10分前、Am7:50ころに八重山漁協に着くと、それらしい格好の人が誰も居ない、少し待つと、ぽつぽつと釣竿を持った人が集まりだした。

ところが集合時刻のAm8:00になっても商工会の主催者が来ないのだ。8:15頃には、釣竿を持った人が20人くらい集まったが、そんなことはみんな気にせずニコニコ待っている。

ようやく8:30になって商工会の車が現れ、「ごめん、ごめん、ちょっと遅れました。」と、これもニコニコして別に悪びれた様子はひとつもないのだ。
商工会の人は、おもむろに受付の机を出して参加受付を始めたが、もうひとり一緒にやってきた商工会の人は、集まった人数を指で数えて「思ったより参加者が多いので、船や弁当が足らないな」などと、ブツブツ言っている。どうも事前に参加予約を取って準備していた様子はない。

はてさて、それから商工会のひとりは弁当を買いに走り、もうひとりは近くに居た漁船の船頭をつかまえて借り船交渉だ・・・・結局のところ、この釣り大会の船が揃ってようやく出航したのはAm10:00を回った時刻でありました。

八重山では「午前中」というのはだいたい午後1時頃までのことを指すらしい。
誰かが「午前中に行くさ〜」と言えば午後1時頃までは待ち、午後1時を過ぎれば「来ないな」ということになるのだ。
「昼後(ひるあと)」という便利な言葉もある。昼後(ひるあと)というのは、正午から深夜までのことを指すので、けっして「正午過ぎ」という意味ではない。「昼後(ひるあと)行くさー」などという約束を信じて待っていると大変なことになるのだ。


次は飲み会の話題。

職場の忘年会とか送別会とかいうものの集合場所は、たいていは街の居酒屋だ。
八重山でも、一応、集合時刻は決める。でも、集合時刻には、おおむね半分の人数も集まらないのが常である。先に来た人たちは、めいめいがオリオンビールやゴーヤチャンプルーなどを注文して勝手に先にやりはじめる。
「上司が揃うまで箸に手をつけない」などという礼儀は内地のものであって、そんなことを言っているといつ食べられるか分からないからだ。
全員が揃うのは、だいたい集合時刻の2時間後くらい、それでも文句を言う人は誰も居ない。


やっぱり八重山ってスゴイ!




【八重山人と泡盛】



八重山では、泡盛のことを「島酒」とか「しまー」とか呼ぶ。

この泡盛というのは米を原料とする醗酵酒を蒸留したもので、言わば日本酒を蒸留したようなものだ。
生産量が少ないので「幻の酒」と呼ばれる波照間島の「泡浪(あわなみ)」


もともと泡盛という酒は瓶(カメ)に入れて冷暗所に貯蔵したもので、沖縄では出産・結婚・開店などの人生の節目に泡盛を瓶(カメ)に入れて床下などに貯蔵して、何年か後に開けて古酒となったものを呑むという習慣があった。沖縄伝統の酒である。
  古酒









泡盛の蒸らし作業

タイ米を蒸して麹を加えて発酵させ、後ろに見える釜で蒸留して酒にする。


八重山人は泡盛が大好き。八重山で「酒」と言えばこいつのことで、スナックなどにはウイスキーとかブランデーとか日本酒なんかは置いてもないのだ。

スナックと言えば、この島のスナックはPm9:00からPm10:00にかけて開店する。「18番街」という旧赤線街の飲み屋などは、なんとAm0:00に開店する店もあるのだ。こんな時間に店を開けるのだから、当然、閉店はAm3:00頃になるのだ。遅い店になるとAm7:00頃まで開いている。朝まで呑むと翌日の仕事は・・・・そりゃ休みですよ。当たり前でしょう。
やっぱり八重山はスゴイのだ。

泡盛にだけは酒税が65%ほどしかかけられておらず、とても安い。(通常の酒には95%ほどの酒税がかかっている)三合瓶が500円くらいの庶民の酒だ。
八重山人は、ともかく酒好きが多く、何かする前には前祝だと言っては呑み、終われば「ぶがり直し(慰労会)」だと言っては呑み、なんでもかんでも呑み会に変えてしまうのだ。
僕の友人の海人(うみんちゅ)が3mほどの小さなボートを自作したが、そのときには、
1.建造開始の前祝い
2.甲板を張り終わった祝い
3.進水の祝い
4.竣工祝い(ぶがり直し(慰労会))
と、都合4回の酒宴が盛大に執り行われたのだ。

泡盛好きの八重山人だが、八重山人は案外、アルコールに弱い。これは多分、沖縄人の体質によるものだと思う。アルコールに強い弱いは、アセトアルデヒド脱水素酵素というのをコントロールする遺伝子の強弱が関係しているらしいが、八重山人の遺伝子は弱いに違いないのだ。ほとんどの八重山人は、二合も呑めば酔っ払ってしまう。

八重山では酔っ払いのことを「びーちゃー」と呼ぶが、夜の街には、三合瓶を片手にフラフラしながら歩いているびーちゃーや、酔っ払って歩道で寝込んでいるびーちゃーなどをよく見かける。ここは南の島なので、街で寝込んでも凍死したりはしないのだ。寝ていて車に轢(ひ)かれることはよくあるようだが・・

なにせ1本500円の酒なのだから、限度さえわきまえればそうそう家計を圧迫することもない。島暮らしのササヤカな楽しみが泡盛なのだろう。
とは言え、この島では、呑むために仕事をしているような人もよく見かける。毎日、安酒場のカウンターの定位置に座って三合瓶を前にしてひとりで飲んでいるのだ。勘定は約2,000円、低賃金の島なので1日の日当が約5,000円、残った3,000円を家に入れるのだ。カーチャン怖くないのかな?


かくして、今夜の八重山もびーちゃー天国と化すのである。




【隣町は台湾】



八重山と台湾(中華民国)とは隣町だ。

 
石垣島と台湾とは、たったの225kmしか離れておらず、石垣島と台湾とを結ぶ有村海運の「クルーズフェリー飛龍21」は、2008年までは6時間強/12,500円の船賃で石垣島から台湾(基隆)に人を運んでいた。
※この有村海運の「クルーズフェリー飛龍21」は、2008年6月、原油高騰のあおりを直に受けて破産し、現在は運航を中止しているが、離島のなくてはならない貴重な足なので、運航が再開されることを望むが、なかなかそうはならないようだ。

八重山諸島の西端の町与那国と台湾とはわずかに110Kmの距離しかなく、戦前の与那国人は頻繁に台湾へ行き来した。
戦前では、与那国尋常高等小学校の修学旅行の行き先も台北で、大都会台北は、東京や大阪などの内地の都会よりもずっと身近な都会だった。
流行や文化も、沖縄を飛び越して台湾から与那国に直に入ってきた。与那国で獲れたカツオや豚などの産品を台湾へ売りにいく人も多く、戦前の与那国では、日本の内閣印刷局が製造した「台湾銀行券」が日本円/日本銀行券よりも多く出回っていたという。

紙幣の表の絵柄は「官幣大社台湾神宮」

今でこそ、与那国は「日本最西端の島」とカッコよく呼ばれるが、戦前は、「日本の果ての島」と呼ばれることのほうが多かったのだ。

日本復帰前の八重山には、とくに昭和30年代から盛んになったパイン栽培やサトウキビ栽培の労働力不足を補うために大勢の台湾からの出稼ぎ中国人たちがやってきて島に住み着き、沖縄の日本復帰直前に彼らの多くは日本に帰化したので、八重山にはとても帰化台湾人が多い。

この帰化台湾人の人たち数千人も、当然、今は立派な八重山人(やいまんちゅー)なので、八重山人気質を語るについては欠かせない要素なのだ。
帰化台湾人たちがおおぜい入植した名蔵(なぐら)地区の御獄(うたき)では、今でも台湾式の正月や祭事が催されていて、これが日本とは信じがたく、まるで香港や台湾に居るようだ。

「富貴吉祥」というのは中国で縁起の良い言葉とされるもので、他に「花開富貴」「生意興隆」「萬事勝意」「出入平安」「財源廣進」などの言葉がよく使われる。

彼らは、当然、日本人としてこの島に住み、正月や盆には台湾に里帰りもする。台湾に住む親戚たちも台湾から日本の親戚を訪ねて八重山へ遊びに来る。この島はとても国際色が豊かだ。

当然のことだが、台湾(中国)文化は、この島の隅々に深く浸透していて、この南の島を、より異邦的なものにしている。第二次大戦の末期、多くの八重山人は戦火を逃れるべく「疎開」したが、八重山人の疎開先のもっともポピュラーだった土地は、日本ではなく、実は隣町の台湾だった。
こうして、八重山人たちも帰化台湾人のことを特に表立った差別もせず、普通に八重山人同士として付き合っているのがよく分かる。

八重山は一面では「国境の町」であり、僕の知人の帰化台湾人のオジィは中古電気製品の密輸で捕まったことがあるが、彼に言わせると、「中古電気製品を台湾に持っていけばいい値で売れたので、船で運んで小遣い稼ぎをしていたら捕まったさー。なんでかね−?」という単純なことであるようだ。もちろん、そんなに悪気はない。

国境は国が決める。
しかし、国境の町に住む隣国を故郷とする民衆にとっては、親戚や友人の住む隣町へ物を運ぶだけなのだから、国が勝手に定めた国境なんかは関係がない。現に、戦後の一時期には、台湾−与那国間を運ばれた物資(密輸品)が、沖縄経済を支えたこともあるのだ。
もっとも最近の台湾は工業化が進み、けっして日本の中古電気製品なんかは欲しがらない。今では、八重山の帰化台湾人たちが台湾から日本に持ち帰る土産は、パソコンや電気製品で、日本から持っていく日本土産はウコンなどの薬草や健康食品や一番人気は「金ちゃんヌードル」だったりする。

台湾からも観光客が八重山にやってくる。観光客を乗せてくるのは「スタークルーズ」というシンガポール船籍の豪華客船で、基隆−石垣−那覇間を2〜3泊でクルーズする。
今では、日本の若い観光客層よりも彼ら台湾人はずっと金持ちで、八重山でずいぶん豪遊して帰っていくようになった。
一昔前までは「万引きが多い」などと馬鹿げた偏見を持って台湾観光客を毛嫌いしていた石垣島の土産物屋も、今では「歓迎光臨/ファンインクヮンリン」の幟を掲げ、台湾語の話せる店員を雇って彼らを本気で「有望な客」として歓迎する姿勢に変わったのだ。

  

21世紀は中国の時代だから、そのうち、八重山で仕事にアブレた八重山人たちが景気のいい台湾に出稼ぎに行く時代が必ず来るだろうと思う。


時の流れを感じます。




【移民の島】



石垣島は移民の島だ。

昔の石垣島はマフタネーと呼ばれる農村部、シィムヌマーリィ(下の周り)と呼ばれる士族の住む地区とに分かれていた。明治の廃藩置県後に、市場通りあたりに沖縄本島や内地からの移住者たちが商店を開いた。その南の海辺には、沖縄本島の糸満から移住してきた海人(うみんちゅ)たちの集落が軒を連ねていた。

集落の前のリーフが天然の漁港・豊穣の海で、目の前の海で「魚が湧く」とまで言われたそうだ。
昭和30年代の海人(うみんちゅ)とサバニ

海人たちの間に大型漁業であるカツオ漁業が広まったのは明治30年代で、沖縄本島の糸満から移住して来た漁師たちが最初に始め、後に宮崎県や高知県のカツオ節業者もやってきた。
やがて、カツオ漁業とカツオ節の製造は石垣島だけでなく与那国、波照間、鳩間、小浜や尖閣諸島を基地にして広く行なわれるようになった。

太平洋戦争が終わると、戦前から中国大陸や南洋など外地に住んでいた沖縄人たちがどっと沖縄に引き揚げてきたため、沖縄はどこの村も人であふれ、食糧難さえきたしはじめた。
このため、沖縄本島や宮古島の人たちは新天地を求めて大挙して未開の地であった八重山に移住してきたのだ。彼らは、石垣島北東部や北西部に、主に1951年(昭和26年)から1957年(昭和32年)にかけて次々と入植し、新しい村を建設していった。
平野・久宇良・明石などの北部地域の集落や野底・伊原間・井野田・桃里・米原・吉原などの中部地区の集落は、みんなこの頃に入植、開拓されたもので、50〜60年の歴史しかないのだ。
入植者たちはジャングルに茅ぶきの小屋を建て、みんなで合宿しながら木を焼いて焼畑農業を始め、サツマイモなどを植えた。イノシシやマラリアが猛威をふるい、医療施設ひとつない開拓地で、「生きるか死ぬか」のどん底の貧困生活だったという。こうして出来上がったのが現在の石垣島だ。

この島は、宮崎県/高知県(カツオ節)・徳島県(サトウキビ)・和歌山県(漁業)など内地からの移住者や、沖縄本島や宮古島・波照間島や与那国島など八重山諸島からの移住者、そこへもってきて台湾や東南アジア諸国からの海外移住者たちが、それぞれのお国言葉と文化を持ち込んで創造した島なので、ここには「熊野神社」も「金比羅山」も「台湾道教」の神社までもあるのです。

長い歴史のなかに八重山を襲った大きな天災もあった。
1771年4月24日(明和8年3月10日)に石垣島の南南東35kmで発生したマグニチュード7.4規模の地震により発生した大津波は「明和の大津波」と呼ばれ、ギネスブックにも掲載された世界最大の津波で、この波の高さは、先の「東北地方太平洋沖地震津波」をはるかに凌ぐ84.8mあったと伝わる。
※波高には諸説があり、現実に84.8mあったかどうかは現代では立証のしようがない

この津波の直撃を受けた白保や大浜、宮良地区では、当時の人口4,197人のうち、3,863人(92%)がたった一波で溺死した。もっとも、死者・行方不明者2万7560人という先の東北地方太平洋沖地震の被害とは比ぶるべくもない。

これらの地区のこれまでの歴史は、この津波で消滅し、1771年以降に新たな歴史が始まったということになり、こんな例は世界でも稀なのだ。

  明和の大津波の人的被害
 

大津波の後、壊滅した白保集落は波照間島や多良間島からの強制移住で、徐々に復興していったので、白保の方言は「波照間方言」や「多良間方言」で、たった2Kmしか離れてない宮良地区の老人と白保地区の老人が方言で話すと通じないという不思議なことが起こる。
白保に伝わる「島腐らし(シマフサラシ)」という6月の行事は、バナナ(芭蕉)の木の幹で小さな丸太舟をつくって馬肉を載せ、クバ(ビロウ)の葉を帆にしてサコダ浜から海に流す。馬の血をつけたしめ縄が、白保集落の3ヶ所の入り口の高所に吊るされ、馬肉は、冬瓜と昆布とで汁にして子供たちに振る舞われる。この不可解な行事に、いったい何の意味があるのか?

  
難破船の漂着や悪病の流行を追い払うためのものという説もあるが、「魔よけ」なのか「津波よけ」なのか、誰が始めたものなのか、あれこれ言われてはいるが実際のところはさっぱり分からないのである。

白保では、害虫などを芭蕉で作ったいかだに乗せて東の海に流す。
馬の血を左縄につけ、集落の3方の入り口に掲げることで、疫病などの災いを防ぐ。
馬の血のにおいで島(集落)を腐らせることで、擬似的に災いが来ているように見せかけ、新たな災いを防いだことから、島ふさらし(腐らし)と呼んだとも伝わる。

沖縄南部の地域では牛を殺し、その肉を煮て、トゥン(殿)、アジシー(古いお墓)、村落のニーヤ(根屋、草分けの家)などにそなえる。
牛の血をガーガー(他の地域ではススキと桑の葉など)と呼ぶ植物の葉につけ、各家の壁、便所、門などにぬりつける。残りの肉は集落の人々に分ける。左縄(普通の縄と逆に左綯りになったもの)を牛の骨を括りつけ、集落の四方のはずれにしめ縄のように張り、外からの厄災を入れないようにする。
左縄を張る場所は集落の内と外の境界と考えられているところだ。こんな風習は、白保のそれと似通っており、そのルーツは同じものと思われる。

 
 白保のイカダ                        白保のミルク行列

津波シミュレーションのアニメーション(mpegファイル)
明和の大津波動画(1.4Mbyte)

大津波に襲われる前の八重山地方の人口は3万人弱だったが、この津波で1万人近くが亡くなって人口は2万人ほどに減ったうえ、以後、明治に至るまで人口は減少し続けて明治初期には1万人程度まで減ってしまった。津波による田畑の冠水で八重山の農地が疲弊し、飢饉や疫病の蔓延によって多くの人がさらに死んだからだ。
減少した石垣島の人口は、沖縄本島・宮古・波照間・与那国などからの移民で第二次大戦後には3万人にまで回復したが、増加した2万人は、当然、純粋な石垣島人ではなく、他の地域からの「移民」たちだ。


ということで、内地から移民した僕も、この島では堂々と移民風を吹かすことができるのだ。なんてったって移民のほうが数が多いんだから。




【神の島】



石垣島は神の島だ。

八重山というところは、もともとが仏教国でも神道の島でもない。
だから、葬式に僧侶を呼んでお経をあげるという習慣もほとんどなかった。僧侶の代わりに「ユタ(沖縄に古来から存在する民間の巫女・シャーマンのことを八重山では一般にユタと言う)」と呼ぶお祈りおばさんのような女性たちが祈りをささげるのだ。
ユタは、ほとんどが世襲制だが、ユタの子供に霊感の薄い子が居ると、必ずしも世襲せず、親戚のなかの霊感の強い女性がこれを継ぐ。お祓いしたり家相を占ったり、時には婚姻の可否とか離婚の適否を占ったりもする。彼女たちの発言力はなかなか強い。

50歳台の僕の友人は、最近、仕事が順調でなく、親父のススメで霊験あらたかだという評判のユタを呼んで占ってもらったところ、「お前の女房に凶相が出ている。別れなさい。」と、なんとも無責任なことを言ったという。ユタの言葉を信じる親父は、それ以来、友人の女房に冷たくあたるのだ。
占いなどというものは、内地でも沖縄でも概ねそんなもので、人の心はとても弱い。

この「ユタ」という言葉は青森/恐山の「イタコ」の「イタ」と同義語で、「言葉」という意味だという説があり、東北では母音が付け加わりitakoとなったが、沖縄では子音がとれてita→yutaとなったという説がもっとも有力だ。

20年ほど前からヤマト(日本)の葬儀屋が進出してきて、今では9割方の家が僧侶を呼ぶようにはなったが、今でもユタを呼んで葬儀をする家は少なくないし、仏教僧侶による葬儀を終えてから(僧侶が帰ってから)、ユタを呼んでもう一度拝み直すという家もある。
※仏教僧侶がユタを邪教と蔑むので、あえて僧侶が帰ってからユタを呼ぶ

石垣島以外の離島には、寺院もなく、当然、葬儀屋もないので、住民手作りの葬儀をする。火葬場もないので、今でも「土葬」だ。土葬文化の沖縄には土葬禁止条例がなく、火葬場がない離島地域の人たちは、もっぱら土葬が慣行なのだ。
離島の葬儀は賑やかで厳か、まさに「葬儀の原点」を見る想いがするのだ。

※これは与那国島の葬儀


「ユタ」とは厳格に区別される職種に「神司(かんつかさ)」というのがあり、御嶽(うたき・おん)で神事を務める。神司は、地域共同体である村(シマ)の聖地となる御獄で祭祀を司どる神職者、神の使いだ。
神司は女性の仕事で多くは世襲する。この神司の八重山のとりまとめ役として「ホールザー」と呼ばれる神司の親分のような人も居るのだ。

祈祷する白装束の八重山の神司(かんつかさ)



祭りや地域の行事があれば彼女たちの出番


五穀豊穣の神「ミルク」は南方伝来の「弥勒(みろく)」と言われている

「ミルク」と呼ばれる神も居る。行列の先頭で不思議な顔をした白い仮面を被りゆっくりと優雅な動きで行列を導いているのが「ミルク神」だ。「ミルク」は「ミロク」が沖縄方言に変化したもので、「弥勒菩薩」のこと、色が白いからミルクというわけではない。
でも、ミロクの仮面は布袋の顔をしていて、日本の弥勒仏とは似ても似つかない。これは、沖縄のミロクが、日本経由ではなく、布袋和尚を弥勒菩薩の化生と考える中国南部のミロク信仰にルーツをもつためだと言われる。

こんなに多くの神々の住む国だから、葬儀でも宗旨宗派なんかは殆ど関係なく、「葬式に来るのは坊さんでありさえすれば誰でもいい」のだ。もちろん、お経なんかは般若真経であろうが南無阿弥陀仏だろうが、お経でありさえすればそれでいい、なんておおらかな・・・・・・・・いかにも八重山的で素敵なことではないか。


やっぱり八重山ってスゴイ!




【唄と芸能の島】



八重山は「唄の島、芸能の島」と呼ばれる。

 

俗に「沖縄民謡」として知られている曲のなかには八重山民謡がけっこう多いのだ。
安里屋ユンタ」や「とぅばらーま」、「月ぬ美しゃ」といった名曲は八重山民謡だし、山里勇吉とか大工哲弘、BEGINや夏川りみ、新良幸人、大島保克などなど・・・八重山出身の歌手も多い。
※上の青いところをクリックすると音楽が聴けます
  音が出ますので、職場で見ている人は要注意(*^_^*)

現実に、この島の男の半分は、それとなく三線が弾けるし、女の半分は郷土舞踊が踊れる。小学生でさえも民謡のひとつやふたつは唄えるという、まさに唄と芸能の島なのだ。

八重山の芸能は祭祀に由来するものが多い。
「結願祭(ケツガンサイ・キチガンサイ)」は年中行事と、干支の一まわりで12年に1度というものがある。結願祭はこれまでの締めくくりということもあって、芸能が集中しており、結願祭を見れば島の芸能が解る。
「節祭(セツサイ・シチサイ)」は、年の折目、ひとつの節目の儀式で、かつては八重山全域で広く催されていたが、今では石垣島の川平地区、西表島祖納地区、干立・船浮地区などに細々と残っている。
川平では来訪神である「マユンガナシィ」迎えに始まり、5日間、祖納・干立・船浮では神迎えの舟漕ぎ、アンガー踊りなどの演目を中心に丸3日間ぶっ続けで開催される島の祭りだ。

そんなときに必ず登場するのが三線(サンシン)、沖縄には、本土の三味線とはちょっと違う棹の短い三線と呼ばれる独特の楽器が伝わっており、もともと日本の三味線は、沖縄の三線が商人の手で大阪の「堺」に渡り、その後に三味線に進化したものだ。
この三線には、基本的には蛇(現在は輸入物のアミメニシキヘビ)の皮が張られていて、猫の皮を張る内地の三味線とは音色も趣も異なる。

中国の床の間には硯と墨と筆が置いてあるが、日本(ヤマト)の床の間には刀かけに大小二振りの刀を飾る。沖縄では、床に三線二丁(一対のもの)を三線箱に入れて飾っていたのだ。

これは「飾り三線」と呼ばれ、その家の主人が芸能に理解のあるという証であるとともに、その家の経済的なゆとりを示していたといわれている。
三線話のついでに、沖縄を代表する三線歌「てぃんさぐぬ花」は、俗に言う教訓歌というもので、親から子へ、老人から若者へという連鎖のなかで教訓として唄い継がれた曲で、こうした唄は沖縄にはとても多い。

「文」を重視した中国、「武」を重視した大和(日本)、「芸」に重きを置く琉球の其々のお国柄が出ていて面白い。


話は逸れるが、沖縄は空手の盛んなところである。琉球空手は中国から琉球に入ってきて、大和(日本)に渡り今日に至ったが、大和(日本)では空手は武道であり、沖縄では武芸と呼ばれる。あくまで「芸」なのだ。このあたりが沖縄人の優しさ・・平和主義の現れだと思う。

昔は、蛇皮は高価で庶民には高嶺の花、蛇皮の代わりに胴に渋紙を張った三線が多く、蛇皮張りの三線がある家は経済的にゆとりのあるとされた。

八重山では、経済的に苦しい時には先ず不動産を売り、次に墓を売り、最後に家伝の三線を売るというほど三線は大切にされた。刀は武士の魂と言われるが、三線は八重山人(やいまんちゅー)の魂のようなものだ。
僕の友達の八重山人は、この不況で倒産して家屋敷を失ったが、三線だけはずっと手元に置いていたが、それも去年にはとうとう泡盛に化けた。
  
彼の口癖は、「(経済的に)立ち直ったらあの三線を買い戻す。」ということだ。彼の三線はヤエヤマクロキの老木の鞘で造られたとてもいい音の出るものだったらしい。八重山人(やいまんちゅー)たちは、唄や芸能を「遊び」とはとらえていない。それはまさに彼らの生きる糧のひとつなのだろう。
そこには、島唄のひとつも唄えないようなヤツは島人(しまんちゅ)ーとは認めない、という強い意志すら感じるのだ。

そんなわけで、八重山の夜の街角では、いつもどこかの家から三線の音色が聞こえる。深夜であってもこの三線と唄だけは天下御免で、ウルサイと文句を言う人は八重山にはまず居ない。


やっぱり八重山は、とても楽しい。




【絶対に謝罪しない?】



八重山人(やいまんちゅー)は絶対に謝罪しない。

この島に越してきてしばらく経った頃、当時乗っていた軽四自動車の調子が悪くなって修理屋に持ち込んだことがあった。
修理のついでにルーフキャリアを取り付けようと思い立って店員にカタログを見てもらったら「8,000円です」ということ、思っていたより安かったので取り付けてもらって10日経った頃・・・・・・
修理屋の兄ちゃんと「経理部長」と称するオバチャンが家を訪ねてきたのだ。曰く、「店の子がカタログをヒト桁見間違っていたので、差額の72,000円を集金に来ました。」

普通なら、まず「ヒト桁見間違っていた」ことを詫び、「差額の72,000円を店が被る(損する)のは無理である」ことをきちんと説明し、最後に「差額の支払い」を客にお願いして、支払方法を相談するという、当たり前の手順がすべて抜け落ちているのだ。
経理部長は単に集金に来たのであって、けっして謝罪しに来たのではない。彼女は、ちゃんと印紙を貼って日付を入れた領収証なんかを片手に握り締めて、「早く金をくれ」としか言わない。

僕は、こんなフザケタ話に黙って金を払うほどお人良しではないので当然払わない。
第一、最初から80,000円と知っていたらこんなものは取り付けないのである。
そのへんのところを、とくとくと彼女に説明してやるのだが、ふんふんと、うなづきながら僕の話を聞き終わった彼女は「で、いつお金を払ってくれますか?」としゃーしゃーと言ってのけるのである。
彼女は、どうしても論点を理解できず、ともかく「早く金をくれ」の一点張りだ。
結局、面倒くさくなってルーフキャリアを取り外してもらったが、今度は「取り外し工賃をくれ」と言う。
誰がそんなもん払うか!馬鹿!

こうして、彼女は、なぜ、僕が払わないかということはまったく理解できず、彼女の思考の中に「内地人(ないちゃー)は面倒さー」ということだけがインプットされただけで、かくして、内地人(ないちゃー)嫌いの八重山人(やいまんちゅー)をひとり増やしてしまったのだ。

中国や韓国を旅すると同じような経験をすることが多い。彼らも絶対に謝罪しないのだ。謝罪すれば、責任が発生するからだ。責任が発生すればその賠償をしなければならないから絶対に謝らない。逆にこちらの弱点を探し出して逆襲してきたりする。
謝らない中国・韓国人、謝る必要もないのになんでも謝って、ヨーロッパやアメリカ社会で馬鹿にされる日本人、そして謝ることを知らない八重山人・・・・・いったいどれが正解か?

似たような経験を何度もした。出来の悪い大工仕事で建てたばかりなのに雨漏りする家、買ったばかりなのに動かない電気製品、借りてすぐの角を曲がったところで故障したレンタカー、でも八重山人は、みーんな悉(ことごと)く、けっして謝らない。「雨漏りしたさー」「動かなかったさー」「壊れたさー」ということですべて終わってしまう。とても不思議。

日本(ヤマト)には「モノは言いよう」という言葉がある。
同じことでも上手に言えば騙されてしまうが、ストレートに言えば通らないということだ。内地人なら、もっと上手にモノを言い、とりあえず謝って場をつくろい、うまく集金するだろうに・・・・。
上手にモノを言うということは八重山人の最も苦手とするところで、頼まれれば断れない、だから、とても曖昧に返事をして相手に期待を持たせてしまう。結局、期待に副(そ)うことはできず、ハッキリ断ったり謝ったりする勇気がないので、そのまま放ったらかして事態を余計難しくしてしまう。

そのことで詰められると・・・・・逃げ出してしまうのである。相手が内地人(ないちゃー)だと余計にそうなる。口で勝てないからだ。ひどい場合には家の中に閉じこもって出てこなかったりもする。

そんなふうに考えると、結局のところ、八重山人は純情なのかなー、と、変なところに結論が落ち着いてしまうのだが、やっぱり、謝るべきところは謝り、断るべきことは断ったほうがいいと思う。


こんなところも八重山人気質、やっぱり八重山人は謎が多い民族なのだ。




【細かい分類をしない】




八重山人(やいまんちゅー)は細かい分類をしない。

石垣島の魚市場は、多分、日本一遅く開場する“怠け者”の魚市場だ。
この魚市場の競りの開始は午前9時だ。8時45分くらいの時間になると、島じゅうの仲買人や魚屋が市場に集まってくる。
赤い魚や緑の魚、得体の知れない怪しげな格好をしたやつも居る。観賞用熱帯魚の水槽から逃げてきたような鮮やかな色彩のものも居る。僕は釣り好きなので、たいていの魚は知っているが、それでも時々珍しいのに出会う。
      
そんなときには仲買のオバチャンをつかまえて尋ねてみるのだが、たいがい一様にこんな返事が帰ってくるのだ。
「さあ何だったかね〜、よく分からんさ。でも美味しいよ。」魚のプロの返事としては、なにかいまひとつ頼りない・・・・。

結局のところ、八重山人(やいまんちゅー)は、魚の名前とか分類とかはどうでもいいのである。八重山にかかわらず、沖縄人は分類や名前にこだわりがない。
内地の海にも居る「鯵」には、焼魚でよく食べる普通の小アジから1mを超えるローニンアジやカスミアジまで、いろんな種類のアジの仲間が居るが、この島では、これら全部を「ガーラ」と呼ぶ。
どこから見てもまったく種類が違うのだ。オバチャンに「違うじゃないか、あれは何ガーラ?」と訊くと、「あれは大きなガーラさ」と答えるのだ。
     アジ   カスミアジ   イラブチャー

同様に「ブダイ」の仲間ともなると、アオブダイからコブダイに至るまで、全部ひっくるめて「イラブチャー」と呼ぶのだ。
「あれは頭にコブのあるブダイの仲間のコブダイ」「これはアオブダイ」「あっちはナンヨウブダイ」なんて面倒な分類は、八重山人には似合わない、どうせ、刺身や切り身にして食べるときには同じだもんね。
「美味しいんだから細かいことはいいじゃない。」というのが、八重山人(やいまんちゅー)の基本的な考え方なのだ。

花の分類にしても、ハイビスカスであろうがブーゲンビリアであろうが、赤い花は全部「アカバナー」と呼んだりもする。こういうお国柄だから、八重山での動植物の新種の発見者なんかは、ほとんど内地人(ないちゃー)なのだ。

日本最小のセミである「イワサキクサゼミ」を発見したのは石垣島測候所長をしていた内地人の岩崎卓爾さんだし、「イリオモテヤマネコ」の発見者として知られる作家の戸川幸夫さんも、もちろん内地人だ。
八重山人は西表島に代々住んでいたのだから、当然、「山の中に変わった猫が居る」ということは知っていたし、僕は「子供の頃には(イリオモテヤマネコを)食べていた。」というオバアを知っているが、彼らは、けっしてそれが未発見の新種の珍しい山猫かもしれない、などと難しいことは考えない。

新種の動植物を見つけてみたところで、腹の足しにはならないが、今や、西表島は、ヤマネコのおかげで全国的に名が知られ、そこに住む八重山人の多くは、ヤマネコのおかげでやってくる年間115万人の観光客が落とす金を多かれ少なかれ当てにして生きている。皮肉なものである。
僕が八重山で遊び始めた40年ほど前には、日本人で、西表島を「いりおもてじま」と読める人なんかはほとんど誰も居なかった。良くて「にしおもてじま」、悪ければ「さいひょうとう」だ。
それもこれも、みんなヤマネコ様様のおかげなのである。

この細かい分類の苦手な愛すべき八重山人たちは、動植物の分類が苦手であるだけでなく、日本人であろうが台湾人であろうが、「ないちゃー」とか「たいわなー」とか一応は呼びはするが、心の中ではとりたてて分類/差別せず、中国人ともフィリピン人とも平気で共生していく。

貧乏であろうがなかろうが、相手の身なりがいくら粗末だろうが、人の足元を見ることをしない。
知り合いのオジィと一緒に竹富町役場へ行ったことがある。このオジィは住処や家族がなく、港の一角で「ホームレス」をしており、どこから見ても内地流に言えば「乞食」スタイルだが、彼が受付で「町長さん、居るか?」と訊いたら、受付のネエネエは、名前を聞いただけでそれ以外のことは何ひとつ詮索せず、「どうぞ」と応えて、すーっと町長室に案内したのだ。


やっぱり八重山はいい。




【UMA(未確認動物】




「東洋のガラパゴス」と呼ばれる西表島には、「ヤマピカリャー」と呼ばれる謎の生物(UMA)が居る?
と、古くから語り継がれる。

ヤマピカリャーと言うのは、イリオモテヤマネコよりずっと大きい伝説の生物だ。
そんなものがあの島に隠れて生息できるはずないと思うが、2007年12月27日の琉球新報にこんな面白い記事が載った。

【琉球新報 2007/12/27記事 抜粋】
「西表石垣国立公園に指定され、亜熱帯の自然林が広がる竹富町西表島で、ヒョウのような生物が目撃された。ことし9月、研究のため同島に滞在していた大学教授が海辺で目撃したほか、4年ほど前には地元住民も遭遇。西表島には国の天然記念物のイリオモテヤマネコが生息することで知られているが、目撃者は「ヤマネコよりずっと大きくまったく別の生き物、伝説のヤマピカリャーだ。」と話している。
ヤマピカリャーとは、西表島の方言で「山の中で目の光るもの」の意味で、生息が言い伝えられている未確認動物。体長は約80センチから120センチほどで、茶色っぽく、ヒョウのような斑紋があるとされる。尾が地面に付くほど垂れ下がっているのが特徴。
住民らによると、ヤマピカリャーに山で遭遇するなどした人は西表島西部を中心に計47人。食料が不足がちだった終戦直後はヤマピカリャーを捕獲して食べた人もいたという。
ことし9月14日午後6時すぎ、魚類の研究のため西表島に滞在していた島根大学の秋吉英雄教授がヒョウのような生物を目撃した。海辺に座っていたところ、風上からゆっくり近づいて来て目の前に来た時に同教授に気付いて走り去ったという。
秋吉教授は「最初はイノシシが歩いて来たと思ったが、目の前に来てヒョウのような生き物と目が合った。襲われると思って怖かった」と振り返る。「ヤマネコよりずっと大きく、しっぽが長くて斑紋もあった。台湾などで生息するヒョウの一種、ウンピョウと特徴が似ている」と説明した。
西表島船浮の漁業、島袋正一さん(56)は4年ほど前、山の中でヤマピカリャーに遭遇したという。「イノシシのわなを仕掛けに浜から約100メートルほど歩いた所で、突然岩の上からジャンプしてきた。
大きさはヤマネコの倍ぐらいだが、3メートルぐらいジャンプするなど、とても身軽だった」と興奮気味に話した。」

ヤマピカリャーならぬイリオモテヤマネコは、西表島では昔から「ヤママヤー(山の猫)」と呼ばれ、その存在は島人(しまんちゅ)には知られ、通常の家猫とは区別され扱われて来た。
西表島の脊椎動物はアメリカの占領下にあった頃、アメリカの大学による総合調査が徹底的にされていたはずだが、イリオモテヤマネコは、やっと1967年になってから、作家の戸川幸夫氏によって「発見」され、当時の国立科学博物館の今泉吉典氏によって新属新種として分類された。

昭和40(1965)年3月14日に開かれた日本哺(ほ)乳類学の特別例会で、動物作家の戸川幸夫氏が琉球諸島の西表島から持ち帰った皮2頭分と頭骨などを検討した結果、世界に知られていない種類のヤマネコ、と結論づけた。
当時の毎日新聞の記事によると、戸川氏はこの年の2月、八重山群島の生物調査を目的に沖縄に渡航した際、琉球大学教授から「西表島にヤマネコがいるらしい」といううわさを聞き、一頭分の皮を見せられたという。実際に調査してみると、島の住民たちはわなにかかったヤマネコを、その場で毛を焼き、家に持ってかえって“ネコ汁”にして食べてきたことが分かり、島民が「三味線にでも」と残していた古い皮1枚などを持ち帰ったという。
大型ほ乳類で、未知の種が見つかるのは珍しく、同学会も「今世紀のベストテンにはいる動物学界のビッグニュース」と折り紙をつけている。

昭和40年3月15日の毎日新聞昭和40年3月15日の毎日新聞


このヤマピカリャーは、島人(しまんちゅ)の証言からすれば、オオヤマネコ(Lynx lynx)か雲豹(ウンピョウ:Neofelis nebulosa)の可能性が考えられる。
西表島の生い立ちから考えると、島にオオヤマネコやウンピョウが生息していても別におかしくはないのだが、島の面積が狭すぎてイリオモテヤマネコの生息だけで精一杯だと思う。

 
雲豹(ウンピョウ:Neofelis nebulosa) ★この写真はウンピョウです ヤマピカリャーじゃありません

ヤマピカリャーは、体長1.5〜2m(尾を含む)あると言う・・・・・これはあまりにも誇張がひどいように思うし、伝説は誇張されるものだから、伝わる大きさよりも二回りは小さいと考えると、これは多分、メタボリック・シンドロームの怠けイリオモテヤマネコか、食いしん坊のイリオモテ家猫に違いないと僕は密かに思う。

因みに、我が家のメタボリック家猫は体重8Kgあってイリオモテヤマネコの平均体重4Kgを遥かに上回り、ヤマピカリャー並みに「大きさはヤマネコの倍」あるが、メタボリックなので「3メートルのジャンプ」はできず、大概は家で寝ているので、彼がヤマピカリャーに間違えられることはない。
我が家のメタボ家猫

地球が狭くなり、ネッシーも捏造が確定的となった今日、ネパールのイエティ(雪男)とかロッキー山脈のビッグフット、東白川村のツチノコや、この西表島のヤマピカリャーとかが居たらいいな〜とは思うのだ。
とは言え、南米アマゾンでは2009年までの10年間に約1200種の新種の動植物が発見されたと世界自然保護基金(WWF)が明らかにした。
この計算でいくと実に3日に1種が見つかったことになるので、さすがはアマゾン、たった289Kuの西表島とはケタが違うね。ヤマピカリャーの1匹や2匹西表島に居たところで、騒ぐほどのことはないか。

でも、目新しいところでは、 タレントの所ジョージが司会を務める日本テレビ系「所さんの目がテン!」が、ごく短期間に西表島を舞台に調査を行い、陸・海で2種類ずつ、新種のカニや昆虫など計4種の新種生物を発見したというニュースもある。

これはなにも、西表島が未知の生物にあふれる自然の宝庫だからではない。要は、アマゾン同様、八重山には「学者が居ない」という単純な理由で、八重山人(やいまんちゅ)はみんな食うのに精いっぱいで、新種の動植物なんかにかまっている暇はないというお粗末な現実があるからだ。



でも、こんなUMAの話題が実しやかに語られる八重山は、やっぱり楽しい。




【考えとくさ】




日本(大和)でも同じことだが、八重山人(やいまんちゅ)は特に「考えとくさ〜」という言葉をよく使う。

日本でも八重山でも「考えておく」ということは「出来ない」ということと同義語なのだが、ほとんどの場合、向こうから返事は来ないので、催促すると、今度は「考えてるさ〜」に変わる。
次に催告するとほとんど一様に、「考えてみたけど、俺はいいんだけど女房が反対するさ」とか、「息子が嫌がってるさ」とかいう名目で、他人のせいにして断ろうとするのだ。
けっして自分が表には出ない、出来ない理由は、あくまで「自分ではなくて他人」なのである。

これは遊びごとだけではなく、仕事や契約に至ってまで同じことなのだ。
島の知人に頼まれて、知人のちょっとしたトラブルの助太刀をしたことがある。古家を買うことになって半年も前に売買契約を結んで手付金も払ったのに、いつになっても売ってくれないのだそうだ。
売主のオジィに会って事情を聞いてみると、「俺は売りたいんだけど、息子が反対するさ」と言う。
あくまで「契約」なのだから守らなければならない、そのあたりのことをゆくゆく説明すると、「考えとくさ〜」となり、1週間待って電話をすると「考えてるさ〜」になり、さらに1週間待つと「息子が売るなと言う」に変わる。
仕方ないので、息子を含めた関係者に集まってもらって、みんなで話すことにして、オジィの家に集まると、本人と息子だけでなく、親戚のオバサン、隣のオジサン、(元)不動産屋のオバサン、市会議員のセンセイ、その他総勢8人が勢ぞろいしているのだ。
喧々諤々(けんけんがくがく)賑やかでとりとめのない4時間の大討論?の末、やっと円満に協議が整いオジィが酒を出して、関係者みんなで祝杯だ。祝宴は盛り上がり、これまでの確執は嘘のように和やかに午前2時まで続いたのだ。めでたし、めでたしと、普通ならこれでハッピーエンドなのだ。

次の日の朝一番にオジィから電話、「沖縄の姪が反対するさ〜」・・・・・・・・・・・・絶句である。結局のところ「沖縄の姪の反対」を収めて、無事に取引が終了したのは、祝宴から1ケ月も後だった。

以来、僕は「考えとくさ〜」に過敏になり、仕事でこの言葉を聞くと、さっさと諦めて他をあたることにしたのである。

これは何もこのオジィがボケていたわけでもなく、この人ひとりの性格でもなく、八重山人には共通してこんな傾向がある。八重山人は、日本(大和)人よりもずっと家族や親戚や人縁を重視するからだ。


考えようによれば、いいことのような・・・でもやっぱり、これは良くない!
大の男なのだから、家族のせいなどにせず、一度自分が結論を出したことには責任を持たなければいけない。
多分、八重山人は「根回し」が下手なのだと思う。家族に根回ししたり、仲間に根回ししたり、そんな面倒なことはやってられないということに違いない。
かつて、「創政会」という政治団体を作った(故)竹下登総理は「根回しの達人」と呼ばれたらしいが、八重山人にそんな達人はただのひとりも居ない。
この平和な南の島では、そんなヤヤコシイことをしないでも生きていけるという単純なことに違いないと、かってに善意に解釈して、ここは納得することにしよう。




【日本一】




八重山にも日本一はある。

石垣島の日本一記録から八重山人(やいまんちゅー)気質を垣間見ることができる。
石垣島は、日本の南の端っこにある小島で、素晴らしく綺麗な海と素朴な人情に包まれているのだが、この石垣市には、知られざる妙な日本一記録があるのだ。


全国の市の人口と対比した日本一記録

その1
路上寝込み率(泥酔者が道路に寝込んでしまうこと)
 平成 8年  263件
 平成 9年  239件
 平成10年  309件
 平成11年  333件
 平成12年  364件

その2
自転車泥棒発生率
 平成 8年  115件
 平成 9年  152件
 平成10年  160件
 平成11年  186件
 平成12年  193件

その3
離婚率  石垣市は1985年以降、連続日本第一位 ! 2組に1組は離婚に至る
        婚姻件数 離婚件数
 平成 8年  207件<111件>=53%
 平成 9年  256件<103件>=40%
 平成10年  288件<115件>=44%
 平成11年  314件<117件>=40%
 平成12年  364件<146件>=46%

なんとも不思議な日本一記録だが、この島に住んでみるとなんとなくこの記録の意味が理解できる。

日本の地方都市は、おおむね県庁所在地がその県では一番の都会で、そこから離れれば離れるほど田舎になる。
石垣島は、沖縄県の県庁所在地である那覇から大洋を隔てて420kmも離れている。
東京都の場合、都庁から東京都の端っこ奥多摩湖までは約70km離れている。東京都とは言え、さすがに、奥多摩湖まで来れば都心の喧騒は嘘のようで、大菩薩峠から流れ出す丹波川のせせらぎは、田舎そのものの長閑さにあふれているのだ。東京都心部に住む東京都民のなかには、奥多摩湖へ行ったことのない人も大勢居る。これと同様、那覇がいくら都会でも、その喧騒は八重山には当然、まったく届かない。

日本最西端である八重山の日没は東京とは1時間20分遅い。いつまでも日の暮れないこの南の島の夜は、とても長い。八重山人(やいまんちゅー)の長い夜の最大の楽しみは、友人と酒を呑みながらの「ゆんたく:おしゃべり」だ。ついつい深酒に及ぶ、南の島だから年中暖かく夜露や霜はおりない。
家の帰りについつい路上寝込み。う〜ん、分かるような気もする・・・。

子供たちも同じようなもので、この娯楽が少ない島で若いエネルギーをもてあますのだ。深夜11時になっても小中学生がコンビニにたむろしていたりする。そんなに悪質ではないけれど、ついつい遊び心が高じて自転車泥棒、これもなんとな〜く分かるような気もするが、泥棒は絶対いけません!

長くて娯楽の少ない島の夜、小さな地域社会だから、誰と誰が付き合っているくらいはすぐにバレる。
こっそり付き合ったり、こっそり不倫したりできるというのは都会の話で、この島ではすぐに筒抜けだ。
第一、モーテルやラブホも数軒しかないのだから・・・・・
そんなわけで、親の目を盗んで遊びまわることも、奥さんをごまかして彼女を作ることもできず、男女の秘め事はすぐに他人の知るところとなる。
八重山人は、嘘をついたり、ごまかしたりするのが下手なので、結婚−離婚を繰り返す結果となって、こんな記録ができるのだ。僕の島人の友達は、このあいだ、3度目の結婚をした。その前には「もう結婚生活は二度としたくない」なんて言っていたが、彼の決意は、今度の奥さんと知り合って2週間でもろくも崩れ去った。根性がないし、なかなか懲りない。
だからといって、浮いた話もなく清廉潔白に生きるのも、なかなか困難だ。南の島独特の空気は、人の心を開放的にさせ、老人だって恋のひとつやふたつはしたくなるからだ。

というわけで、この島では路上寝込み・自転車泥棒・離婚率という不思議な組み合わせの日本一が、ずーっと続いているのです。

結局のところ、僕は。八重山人は「生きる」ことに正直なのだと思う。
人間誰もが持ついろんな欲望をこころの中に閉じ込めるのが下手なのだ。体裁をつけたり、無理をして頑張ったり・・・・・・・・日本人が美徳とする心中(しんちゅう)を隠すことが下手な気質なので、思っていることがすぐに顔に出る。僕は仕事で八重山人(やいまんちゅ)と会うと、彼が何を考えているのか、まるで超能力者のように手に取るように分かる。
彼らは皆。節度を保って酒を呑んだり、骨身を削って努力したり、寝食を忘れて物事に没頭したりすることができない、要するに自分に正直で怠け者なのである。

内地から越してきた人のなかには、こんな八重山人気質を軽蔑するむきも多いのだが、僕は、自分に正直で、素朴でこころ優しく、小心で素直で、勤労が嫌いで根性がなく怠け者で、自分の意志をはっきり言えず、なんでも適当に済ませ・・・・・・こんな人間的な八重山人たちが大好きで、それが通用するこんな不思議な土地が、この管理社会の日本にひとつくらいはあったほうがいいと本気で思っているのだ。


やっぱり八重山は、アリビリーバボー・カントリー(unbelievable country)なのだ。




【守礼の邦】




沖縄は「守礼の邦(国)」と呼ばれる。

首里にある「守礼門」には、誇らしげに「守禮の邦」と書かれた門札が掛けてあり、これは沖縄の守礼文化を象徴するものだ。
琉球王国は守礼の邦とも呼ばれ、礼節を重んじる国として明や清時代の中国や東南アジアとの貿易で繁栄した国だ。「守禮之邦」(しゅれいのくに)の言葉は、当時の中国(明・ミン)皇帝であった万暦帝(ばんれきてい)からの親書で、「琉球は守禮の邦と称するに足りる」と褒め言葉を貰ったという故事に由来し、小国琉球王朝が大国である中国との関係に非常に気を使っていた様子を伺い知ることも出来る。

明・清の時代(1368〜1911年)の中国は、仏教と道教を融合した儒家道学、ことに儒家の思想によって専制政権を強化し、民族間の対立や階級の矛盾を調整しようとした時期だから、ことさら礼が重視され、その中国思想の強い影響を琉球がモロに受けたのだと思う。



そのためか、八重山人(やいまんちゅ)も含め、沖縄人は仁・義・礼・節・孝をとても尊ぶ。
人との付き合いや行事ごとを重視し、普段は口下手な連中だが、何かの会で挨拶なんかをさせると、とたんに雄弁になり、驚かされることがしばしばある。

八重山人が5人も集まると、ただの仲間内の呑み会であっても、メンバーの長老者が指名を受けて挨拶が始まるのだ。「本日は、皆さんお忙しいなか、また、遠路はるばるお集まり頂いて誠にありがとうございます。」などと何でもないオジィが流暢にすらすら言ってのけるのだ。

知人が小さな店を開店したとか、息子が大学に進学したとか、そんなときには必ずお披露目やお祝いの宴席が設けられ、呼ばれた人は酒や米などの祝儀を携えて駆けつける。葬儀ともなれば、故人の家の半径100m範囲に住む住民はほとんど参列する。
「付き合いがない」と考えて来ないのは内地人(ないちゃー)の移住者だけかとも思う。香典の相場は一律2,000円、貧しい地域で、葬儀を賄う経済的余裕がないための相互扶助の習慣なのだろう。

守礼の精神は、普段はいい加減に見える八重山人の精神の奥底に深々と眠っていて、その奥深さに感嘆させられることが多い。
しかし、かつて「守禮之邦」(しゅれいのくに)とまで呼ばれた琉球の心が現在、果たしてどこまで残っているのかは疑問でもある。

ただの儀礼だけが習慣として残っているが、本来の守禮の精神は既に失われているような気がするのは僕だけであろうか?




【門中】




沖縄には「門中(もんちゅう)」という思想がある。
この門中は、琉球王朝の支配と深く結びつくもので、17世紀以降に成立したと推定され、主に士族層において発達したものだ。
琉球王朝の士族層は王府が公認した「家譜」を持ち、姓の異なる者でも中国風の姓を共通にする者たちが、毎年、清明節や八重山の十六日祭などに始祖の墓や「門中墓」、宗家の位牌の前などに集う。
この門中の中心には、長男系によって伝えられた宗家が居て、基本的には婿養子を認めず、門中内から養子をとって父系原理を貫徹する点など、韓国の門中制度との類似点も多い。

門中制度は、それが上手く機能しているときはいいのだが、悪く機能すると、盲目的に門中だけを信じ、それ以外の外部の者をいっさい排除するという極端な島国思想となって実に大変なことが起きる。
「長いものには巻かれろ」ということで、血縁、地縁、門中縁の呪縛にがんじがらめになってしまい、島中がひとつの門中を形成する。
もともと狭い島社会は「和」を尊び争いを避ける、そう言えば聞こえが良いが、現実は非常に悪質だ。
島社会に住みづらくなるから見えているものを見ようとせず、争うべきときに争わないので、もっともっとひどい「悪」がはびこるようになる。

島人は門中の言うことや目上の者しか信じない、強い者や先輩の言うことを盲目的に信じて従ってしまうという最悪のパターンに陥って物事がまったく見えなくなるのだ。
琉球王朝に侵略され、薩摩や日本(大和)に侵略され、アメリカに侵略された八重山は、いつもお上(おかみ)から頭職(かしらしょく)だとか沖縄守備軍の山下虎雄だとか民政副長官だとかが、「逆らうことの許されない権力」として中央から派遣されてやってきたクセが着いているので、八重山人(やいまんちゅ)は、基本的に権力には逆らわない。

権力に逆らわず、権力を疑うことも忘れて思考停止状態に陥った人間は、目上の者や権力者、門中以外の者の言うことを一切受け入れられなくなり、蓋を閉じたセマルハコガメのようになる。
 
だから、役所のお偉いさんとかの言うことはすべて「天の声」となり、八重山人は、けっして、それに逆らうことはしない。
セマルハコガメになってしまった八重山人たちをあちこちで大勢見た。
彼らはお偉いさんが少々悪さをしたり、賄賂をもらったり、独断で身内を要職に登用してみたり、自らが重大犯罪を犯したりしても、「先生がそんなことはないと言ってたよ」「あれは嘘はずよ」の一言でみんな済ませてしまうので、お偉いさんの関与したことだと、どんな大事件が起きても警察の出番すらろくにないのだ。

八重山に限ったことではあるまいが、そんなセマルハコガメたちは自分が公営住宅に入居したいとか、身内を役所に採用させたいとかいうときは、もっこりと甲羅から頭を出して、平気で県議や市長や部長や彼らの兄弟たちの家に、彼らの門中を介して裏口入学を頼みに行ったりする。
不思議なことに、こんな裏口行為が、この島ではとても効き目があるのだ。

そういうときの彼らのやりとりは、多分、悪代官と越後屋みたいなものに違いなかろう。
「お前も悪よの」「お代官様ほどでは」「ふっふっふっ」・・・・・・、越後屋の横には、きっと山吹色のサータアンダギーが置かれているに違いない。

八重山人は、こんな悪事を人の優しさと勘違いしていて、僕の知り合いの八重山人は、こんな悪質な裏口行為の横行を「かけておくれよ 情けのたすき:安里屋ゆんた」で、これが島の良さだと豪語した。
日本の常識では、こんなことは人の情けでも優しさでもなんでもなく、ただの汚職なので、一体、どこの誰が八重山をこんなふざけた島にしたのか。僕はとても怒っているのである。
これが「長いものに巻かれる」という八重山人最大の欠点の本質なのである。

下々(しもじも)が起こしたことであれば、畑のバナナを一房失敬しただけで逮捕され、実名で新聞報道されたりするが、沖縄では権力は基本的に非難されることがない。八重山門中恐るべし!
八重山人よ忘るなかれ、長すぎる権力は必ず腐る。古今東西、長くして腐らなかった権力はひとつもないのだ。
だから、この島でいったん親分や先生や師匠にまつりあげられてしまうと、そりゃあもう大変さー。あまりに美味しすぎて一生辞められまいと思う。

だっからよー、僕は先生や親分にはなりません。
「なれません」と言うほうが正しい(*^_^*)




【離島の遊び方  コーヒー1杯の利益】




八重山諸島ではないが、石垣島の北東約35kmの海上に面積19.39kuの楕円形をした多良間島と、そこから約8km離れた面積2.15kuの水納島の2島からなる「多良間村」という村がある。

                                          多良間島(手前)と水納島(右奥)

石垣島からこの村に行くにはRAC(琉球エアーコミューター)のセスナに毛が生えたような9人乗りのプロペラ機で25分ほどで行くのだが、この飛行機はナント・・・乗客が乗る前に乗客全員をひとりづつ体重計に乗せて体重を量る。
       
どういう趣旨でそんなことをするかと言うと、乗客の体重を量ってどの座席に乗せるのかを決めて機体のバランスを取るためなのだ。これは、RACと多良間村村民にとっては常識だが、初めて乗る人にそんな常識は通じないので、特に女性客にはとても不評だ。

島に着くとタクシーなんかは当然ないが、バスと呼ばれる乗り物はある。
ところが、このバスの案内看板には「バス(羽地敏勝さん)」と書いてあり、隣の水納島の案内には「水納島(宮国さん)」と書いてあるのだ。
これはいったいどういうことなのかというと、島内唯一の有償運送自動車の経営者が羽地敏勝さんで、水納島に渡る渡船(多良間では一応フェリーと呼ぶ)の経営者が宮国さん(水納島の人口は5人で、住んでいるのは宮国さん一家だけなのだ)ということで、解説がないと、都会から来た人には看板の意味すら読み取れないのである。

  一応これがフェリー

離島ということろは多かれ少なかれそういうもので、要するに都会の常識が通じない離れ島なのだ。

多良間村に限らず石垣島も離れ島なので、離れ島だという意識を持って訪ねないと、とても腹が立つことが多い。
「ここは日本一の離れ島である」という自覚を持って八重山を訪ねれば、郵便が届かなくても、宿の布団が汚れていても、食事が不味くても、言葉が通じなくても、細かい分類が出来なくても、ゼッタイに謝罪されなくても、酔っ払いが道路に寝ていても、約束の時刻が守られなくても、お釣りの計算が出来なくても、み〜んなそれなりに納得できるのです。

都会から来る観光客のほとんどは街の常識と街の物差しで八重山を測ろうとするが、ここ八重山で起きる出来事は都会の物差しで測るのは無理なのです。

この楽しい多良間空路のRAC(琉球エアーコミューター)便がどうなったかと言うと、実は2005年いっぱいで廃止になってしまったのだ。
石垣−多良間間の飛行機運賃は往復チケットを買うと片道約6,300円だった。
仮に満席で飛んでも1日1便しかない空路を運行することによってRACが得る収入は6,300円×9人=56,700円ということだ。
しかも、この空路が満席になることはあまりない。たった56,700円で飛行機を飛ばしたら赤字になることは子供だって分かるのだ。そんな料金ではラジコン飛行機だってマトモには飛ばせません。
いったいなんで敢えて赤字運営をしたのかと言うと、離島に住む人はみんな貧乏で、値段を高くすると客が来ないからだ。

コーヒー1杯の利益
僕は、敢えて沖縄の離島を訪ねる旅人に提言します。
この素朴で貧しい島々で遊ぶときには、けっしてケチケチしてはいけません。

「小商い値切るな」という言葉があります。離島八重山の商売はみんな小規模な「小商い」なのです。
観光客や内地の旅行業者の皆さん、ただでさえ安い飲食代や宿泊賃を値切ったり、地元のささやかな観光施設の収入を「周旋手数料」などという名目でピンハネしたり、足元を見て不当に安い料金で島の観光業者を釣ったりしてはいけません。
八重山人はインドやフィリピンのように値切りに備え予め価格をフッカケておくという術を知らないからです。
ましてや初乗り430円の日本一安いタクシー代をケチったりするのはもっての他です。

この間、僕のところに来た東京に本社のある大手旅行業者からの照会はすごいものでした。
市街中心部のホテルから於茂登岳へ20名を送迎し(片道30分:15km)、於茂登岳を登山ガイド(4時間)して川平湾を周って(1時間)ホテルに帰るという1日コースで20名のお客さんをガイドして「“バスの送迎付で”3万円でどうだ」というフザケタものです。
登山ガイドなんかなしに、単に20名が一番安い交通手段である市内路線バスでホテル−於茂登岳−川平湾間に乗車すれば、路線バス代だけでも36,000円かかるのです。
何度も八重山にお客さんを送り込んだことのある大手旅行業者が、そんなことを知らないはずがありません。
僕は冷たくこう返信メールを打ちました。「他をお当りください」
ほんとはポロクソ言ってやりたかったけど馬鹿らしいので止めました。この大手旅行会社には常識のカケラもありません。八重山人の人の良さをナメてかかっているのです。

こんな調子で、素朴な八重山の観光業者や観光施設の経営者たちは大手旅行業者にいいようにあしらわれているのでしょう。


八重山以外に、いったい日本のどこに430円で嫌な顔ひとつされずに1Kmの距離でも乗れるタクシーや、1,500円で泊まれる宿や、500円で腹一杯食べられる食堂や1日2,500円で借りられるレンタカーがあるでしょうか。
素朴な八重山人(やいまんちゅー)は、けっして好きで安くしているのではないのです。本土に本社を置く大手旅行会社や観光客の皆さんが「安くしろ」と言うから仕方なく薄利に甘んじているだけなのです。

僕のところに来る問い合わせメールの多くは「安い宿はないか」「安い遊びはないか」というものです。安い高いと言ってみたところでコーヒー1杯の差であることがほとんどなのです。
観光客がコーヒー1杯の利益を求め続ける限り、素朴で計算に弱い八重山人(やいまんちゅー)はいくらでも価格を引き下げて、結果としてサービスを低下させ余計な迷惑をかけるか、石垣−多良間空路のように、そのうちみんな潰れてしまうでしょう。
これが純朴な「八重山人気質」の偽らざる本質で、彼らは人の言うこと、特に、客を斡旋してくれる大手旅行業者や内地人(ないちゃー)の言うことに逆らえないのです。


気持ちよく払うべきものを払って遊び、末永く楽しい八重山の旅を満喫すべき時が今来ています。