首里王朝の黄金期と「尚真(しょうしん)王」

琉球王国、その一千年余りの歴史の中で王国への道が築かれ始めるのは12世紀後半のことだ。
建国の神とされる「アマミキョ」の子孫「天孫」の逆臣を征伐した「
舜天」が琉球国開祖の王として登場したのが鎌倉幕府誕生の頃である。

以降、浦添地域を中心とした支配者が「英祖王統」へと引き継がれ「英祖」から王統を受け継いだ「中山王・
察度」の時代から琉球国は「進貢船」とよばれる船で中国へ貢ぎ物をおくり、また中国を宗主国とする冊封体制の中にとりこまれ、深い関わりを持つようになっていった。
15世紀始め、それまで琉球国は北山・中山・南山の3つの国が興りそれぞれ支配者が異なる「三山時代」と呼ばれる時代であったが、初めて統一王国を創建する王、「
尚巴志」が登場し「第一尚王統」の時代が始まる。

「尚巴志」は首里の地に現在の首里城を築き、東南アジアとの海外交易を開設、これを機に、泡盛、紅型、絣、空手、等の文化が渡来した。
「尚巴志」が築いた「第一尚王統」はその後7代にわたり受け継がれ、政治・祭事の安定とともに交易国家として、琉球王国繁栄の基礎を築いていった。1470年に、その後徳川300年の治世よりさらに100年以上も長い、400年以上続くことになる「第二尚王統」が誕生する。
この王統を創設したのが「尚円」である。

「第二尚王統」はその息子
「尚真(しょうしん)」の時代で黄金期を迎え、琉球王国全土を首里王府を中心とした「中央集権国家」が完成し、中国の制度を取り入れ、王を頂点とした身分制度を確立、位によって身に付ける衣服や「ハチマチ」の色などを定めていった。
 琉球国の第二尚王統 尚真王


オヤケアカハチの乱

尚真王は、沖縄本島にいる按司たちを首里に移住させ、地方統治を強化、宮古や八重山地域のリーダーにとっては尚真王の勢力は脅威で、服属して琉球王国の一部になるか、敵対して自分の領地の権益を死守するかの選択を迫られた。
前者を選んだのが宮古の仲宗根豊見親(なかそねとぅゆみや)で、後者を選んだのが八重山のオヤケアカハチだ。


石垣市大浜にある「オヤケアカハチ」の銅像

宮古の支配者であった仲宗根豊見親は、尚真王に使者を送り臣下となることを伝えるが、八重山が服従しないことから八重山に遠征軍を送ることに決め、尚真王は仲宗根豊見親にも遠征軍に加わることを命じた。

西暦1500年、大里按司を総大将とした首里王府の八重山遠征軍は、那覇港から久米島に立ち寄り君南風(ちんべー)という神女を乗せ、宮古島で仲宗根豊見親軍と合流した後、オヤケアカハチとの対立で破れたナータフーズ(長田大主)を案内人にして石垣島に到着、約三千人の兵士を乗せた46隻の軍船が石垣島沖に到着したのが西暦1500年3月12日のことである。
迎え撃つアカハチ軍は海を前に陣をしき、血気盛んなため王府軍もなかなか攻め込めず、夜を待って船団を登野城と新川の二手から上陸して挟み打ちに攻撃し、攻防の末にアカハチ軍を倒した。この戦で、長田大主の妹クイツバもまた、アカハチの妻ゆえに殺された。

八重山征服に力を貸した宮古の仲宗根豊見親は宮古島の頭職(かしらしょく)、その妻は宮古大阿母という身分の高い神女職、石垣への水先案内を努めた長田大主は古見という村の首里大屋子職(現在の区長クラス)、その妹にも八重山の身分の高い神女職が与えられた。
これが歴史上にいわれる「オヤケアカハチの乱」である。
尚真王は、このオヤケアカハチの乱の征服と、1522年の与那国征服によって、宮古・八重山地域に蔵元(くらもと)という役所をおき、南琉球地域における琉球王国の支配体制を作り上げることになる。

この「オヤケアカハチ」という人物が、いったい何者だったのかは、はっきりしていない。八重山の一豪族だったというのが一般的だが、琉球王朝の王家の血筋を引く者という説もあるし、その特異な名も、大屋久赤蜂・おやけ赤幸・おやけ赤溌・おやけ赤蜂と、偽名/変名で伝えられている。
特に、「大屋久」という姓は、尚徳王三代目からの姓で、首里での覇権争いに敗れて八重山に下った王家の血筋の人とも考えられる。

1609年、「尚真」が築いた「第二尚王統」が日本(薩摩)からの侵攻を受ける。この悲劇の時代の王が「
尚寧」である。
当時の大和の権力者であった「足利幕府」や「豊臣秀吉」は、独立国である琉球国の全くあずかり知らぬところで、勝手に琉球を恩賞の対象として大名に与えた。

薩摩藩は関ヶ原の戦いの後、徳川幕府から、悲願であった琉球侵攻の許可を得て、綿密な戦略と三千の兵団・軍艦百隻・鉄砲700丁余りで琉球を急襲し、戦の下手な琉球国はあっけなく薩摩藩に制圧されてしまう。

この首里城の攻防戦は、わずか3日でその幕を閉じたと言う。