市内大川に「宮良殿内(みやらどぅんち)」と呼ばれる築後200年以上を経た赤瓦の古民家(琉球士族屋敷)がある。
この「殿内(どぅんち)」というのは、代々、八重山の頭職(かしらしょく)を勤めた宮良家に対する尊称だ。
琉球王府時代、親方(うぇーかた)と地頭職にある親雲上(ぺーくみー又はぺーちんと読む)の邸宅は殿内(どぅんち)と呼ばれ、その家柄を言う場合には、一般に「宮良殿内」とか「儀間殿内」とかいう言い方をした。
親雲上(ぺーちん)
琉球の士族は、一般に親雲上(ぺーちん)と呼ばれたが、その中でも采地を賜った者、地頭職にある者は親雲上(ぺーくみー)と発音して区別されたという。古くは「大やくもい」と称し、役職に就いた者を指していたようである。「もい」は一種の敬称で、親雲上とは「大やくもい」の当て字であると言われている。
※王府時代の沖縄の氏族の風俗
宮良家には、王府の八重山支配の実態や王府時代の八重山の行政や風俗を知ることが出来る「宮良殿内文庫」と呼ばれる古文書が伝わっていて、これを読むと王府時代の八重山人(やいまんちゅ)の暮らしを垣間見ることができて興味深い。
※現在は、この「宮良殿内文庫」は琉球大学図書館に寄贈されていて、ここにはない
古文書の保管には虫干しなど、相当の手間がかかり、民間では対応できなくなって寄付したようだ
この屋敷は、1819年(200年以上前)に八重山頭職の宮良親雲上当演(みやら・ぺーちん・とうえん)の時代に建造された首里の貴族屋敷をまねた士族建築で、現在は国指定の文化財(建造物)で、琉球士族建築としては沖縄県唯一、民家としても沖縄県では6軒しか文化財指定を受けていない。この屋敷はそのうちの1軒だ。
もともとは頭職を勤めた宮良家の住宅で、周囲にはきれいに加工された琉球石灰岩の石牆(いしがき)を回し、南面に薬医門形式の表門を建て、中に築地塀形式のひんぷんがあり、主屋(重文)の東側には築山や石組を配した枯山水の庭園があり、沖縄における上級士族の屋敷構えをよく残している。
建物の建築主材には八重山でキャンギ(けやけき木/異木/きわだった木というのが語源)と呼ばれる犬槙(いぬまき)や栴檀(せんだん)、屋久杉など、湿気の多い八重山向きの硬くて虫の付きにくい木材が豊富に使われていて、この建物は200年近くを経た今でも、柱の軸組は非常にしっかりしていて、少々の地震くらいでは壊れそうもない。
王府時代の建築には、階級や制度による厳格な規格があり、八重山の頭職がこのように豪華な家屋敷を構えるのは違法であるとして、5回にわたって首里王府から取り壌しを命じられたが宮良家はこれに従わず、1874年(尚泰27年)、ようよう検使によって茅葺きに改められたが、明治の廃藩置県後に、また現在の本瓦葺きに戻され現在に至っている。
厳格だった首里王府の権威も、ここまではそんなに通じなかったということだ。
台風の多い八重山だから、屋根瓦だけは何度も補修されているのだ。
屋敷の周囲をきれいに切り組んだ琉球石灰岩の石垣で囲い、東南面に表門(四脚門)を設け、前庭と中庭を配し東側に庭園、建物は木造平屋建てで城間親雲工の作と伝えられる。
八重山では、こんな立派な石の切組はこの屋敷しかない |
また、この屋敷には、八重山には珍しい椿や南天など、日本の古民家の植え込みに多い樹種と、「八重山黒木」「犬槙」「福木」などの沖縄の樹木が混植されていてなかなか面白い。
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※このオジイは八重山の歴史については生き字引、「写真を残すのがイヤ」と 言って普通は撮らせない。この写真は貴重な一枚だ。
「頭職(かしらしょく)」と呼ばれた琉球王朝時代の八重山最高職官僚の子孫の宮良さん、とても元気な90歳の八重山人(やいまんちゅ)。 |
宮良殿内の青写真(平面図)
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